二進数の三次元
この哀れで醜い底辺オタクに舞い降りた女神。さぁ、そろそろ戻ってきてご褒美をくれないか。ベランダ際に立って、僕は月を探す。あの日の満月はそこに無く、代わりに猫の瞳のような三日月だった。満月には程遠く、その月の光と影の具合と僕の心が重なる。わずかな光のせいだ。見えるから届くと思ってしまう。手を伸ばせど届くわけもない。まるで安い歌の歌詞みたいで、一気に僕の感情を外に投げ捨てたくなった。一般ピープルが聞くような同情の焼き増しの曲に共感できる日がこようとは、僕も根本的なところではあのバイトの馬鹿女と所詮同じなんだ。寂しがり屋。孤独に慣れたつもりでいる渇望者。
寝よう。これ以上考えていたら変になってしまいそうだ。時の流れは流し雛に似ている。流してしまえば、救われる。流された日々はただ無為に彼方へむなしく消えていくだけ。僕らは雛の行き先なんて気にしていられない。
ベッドに入る。相変わらず部屋は暗い。たまに聞こえるのは遠い車の音。考えないように、考えないように。車の音に耳を傾けていく。次第に秒針の進む音にまどろみを誘われるが―――。
(あ、やべ。アニメ録画しないと)
いつもより早く寝るからアニメが見れない。せっかく訪れた薄い眠気に水を差してしまった。かすかな月明かりを頼りにビデオレコーダーを起動させる。
(えぇっと、今日は何時からだ……?)
録画予約は週ごとで登録してあるけれど、毎回確認しないと安心して眠れない。予約一覧を見ようとリモコンをまさぐる。そんなときに、音の少ない部屋に新しい音が響いた。
コン……、コン……。
弱弱しく響いた乾いた音。心臓が跳ねる。一気に覚醒する意識に、体が追いつかない。固まる。テレビには「録画予約を取り消しますか?」の文字。それでもなお、キャンセルのボタンを押せずにいる。
コンッ……、コンッ……。
聞き違いじゃない。音の先は玄関。高鳴る鼓動に打ち付けられて体がやっと動く! もたつきながらも、手をつきながら立ち上がって走り出す。すぐに玄関につくけれど、そのドアを開けるまでには至らなかった。開ける、ただ単純なことなのに、いたく難しいと感じた。手がノブに伸びない。届かない。覗き穴から覗けばいいのに、体はそこで急に止まる。もし、何もなかったら。
「サタロー」
した。声だ。セレナの声だ。か細く、ドアの厚みすら越えないような、そんな音。
「セレナ……?」
名前を呼び合う二人。
それだけで存在が分かる。触れることなく届く。だから隔てるドアを開ける。重かった体は簡単に、けれどぎこちなく動いた。
「もっと、早く、気づいてよ……」
セレナ、倒れていた。磨かれた珠のように美しい頬に一筋の赤い傷を作って。
「お前、なんで……」
「お前って……、言わないで……」
力なく顔を臥して、セレナはそれ以上何も言わなくなった。
「セレナっ!」
抱きかかえて、セレナを確かめる。冷たい。凍えている。息はある。身は小さく震えてしまっている。生きている。よくよく見れば、服は僕が買い与えた無骨なものではなく、もっと女の子らしい、セレナによく似合ったものだ。だがそれはところどころ破け、ほつれていて、土汚れも目立つ。いったいどうしたというのだ。
「とりあえず、暖めないと!」
セレナを背中に乗せ、部屋に入った。セレナは小さく、また軽かった。僕の背に簡単に収まった。響く心音に、一抹の安心を得て、部屋へと急いだ。
さっきまで不貞寝していたベッドにセレナを寝かせる。布団をかぶせて、暖房をつけて温度のボタンを連打した。ぬくもりに、セレナの体は力が抜けたのか、お腹を鳴らした。なんだか間抜けでいつもと同じ、セレナが帰ってきてくれたと、自然と薄く涙が出た。
涙せいでかすむ視界をぬぐって、うどんを作ってやることにした。温まるように、しょうがもすって作ることにした。味がマッチするか分からないが、豚汁をベースにする。母さんに教えてもらった、直伝の豚汁だ。風邪をこじらせた時によく作ってもらった。困った人を助けるのは当然のことなのよ、と教えてくれた母さんの意思と、なんともありませんようにと、ぬくもりをこめる。弱火で具を煮込む。その間にセレナの様子を見ることにする。漂う味噌の匂いに誘われたのか、セレナはかすかに鼻を動かした。野性味を感じさせるしぐさなのに、そこに所謂「萌え」がある。なんだか犬に似ている。
「ん……」
意識がもどったのか、声を漏らしたセレナ。顔をだるそうにして目を覚ました。
「サタロー……」
確かめるようにセレナは呟いた。てっきり「いいにおい」とか、「ごはん?」とか、そういう食欲に忠実なことを言い出すかと思っていた。そんな濡れた瞳で僕を見つめないでくれ。セレナらしくもない。
「いい、におい。ごはん?」
ワンテンポずらして僕の予想に漏らさず合わせてきた。濡れた瞳も、よくよく考えれば、寝起きなんだから当たり前か。
「うどんを作ってるから、もうちょっと待ってろ」
「………。うん、ありがと」
まるで借りてきた猫のようにおとなしいセレナ。この一週間半くらい、何があったというのだ。聞くに聞けない……。顔に傷を作って、ぼろぼろになるほどの出来事。とりあえず、今はぐつぐつと煮えている鍋の待つキッチンへ。
(こういう時って、話すまで待っといたほうがいいんだよな)
普段見ているアニメのストーリーがこんなところで役に立つとは。空気の読めない主人公とかだと、たいてい地雷を踏んで面倒なことになる。女の話の聞きだし方を少しも知らない僕の出来る限りの気遣いだった。
いい具合に煮立ってきた。もうそろそろいい頃合だろう。このタイミングで卵を入れるといい具合に半熟になる。どうせおかわりをせびってくるだろうから多めに作った。卵も固まってきたから、おわんに移して持っていってやる。
「できたぞー」
ベッドの枕元におぼんを置く。そろそろと布団をどかして、ベッドに座る。そうして僕をまじまじと見、うどんもまじまじと見る。何回も繰り返す。
「気に入らないのか?」
「そんなことない……」
前までガツガツと平らげていた様子だったのに、嘘のように落ち着いて食べようとするセレナ。おわんを持って、「あつぅ」と小さく悲鳴を上げた。
「そのまま顔近づけて食っちまえよ」
下品だが今日くらいいいだろう。僕にうながされるまま、吐息で麺を冷ましてからすすって食べていく。
「おいしい……」
顔をおわんに近づけ、犬が水を飲むように低姿勢で汁もすする。コンニャク、豚肉、ごぼうにさといも。セレナはどれもこれも、ふーふーしてからおいしそうに食べる。うれしそうに、顔をほころばせながら。しかし、その目は寂しそうに伏せたままだった。
「もうお腹いっぱい」
半分も食べ終わらないうちに、セレナはごちそうさまをした。これくらいの量だったら、セレナの胃に収まってなお余ると思っていたが、これはどうしたことだろう。ますますセレナの様子が気になってしまう。
「そうか……。冷えただろうから、風呂にも入れ。沸かしておくから」
再び布団に入り、顔をうずめながら小さくうなづいた。男臭いとか、タバコくさいとか、文句もいわない。静か過ぎる。