二進数の三次元
これは僕の書き込みだ。レスが早い。もう来た。明日は休みをとってあるし、朝までこのスレにいるとするか。
暗い。夜だ。そうか、あのあと……、朝方まで起きていたのか。風呂も入っていない。体が若干汗ばんでいる。気持ち悪い。でもシャワーを浴びることすら気だるくて、僕はそのままベッドで呆けることにした。だけど、呆けることにさえ体力が要るし、お腹もすいた。晩飯を食べることにする。ご飯に漬物だけで済まそうと思ったけど、炊飯ジャーの中は空だった。インスタントも無い。ちょうど今朝食べてしまったことを思い出し、悪態をついてパスタを作ることにした。沸騰させたお湯に塩とオリーブオイルを入れてからパスタ麺を入れる。缶に入ったミートソースをフライパンに移して弱火で暖めておいて、茹で上がったパスタ麺と絡め、ささっと皿に移す。
昨日の夜から立ち上げっぱなしだったPCの前で、謎解きサウンドノベルをプレイしながらの晩飯。結構前に買ったのだが、やる気が起きなかったり、別のゲームをやっていたりと、手を出せずじまいだった。昨日書き込んでいたスレッドの奴らのレビューが興味深かったのでやることにしたのだ。
目でPC上に流れてくる文字追って、右手でフォークをくるくると回して口へと運ぶ。PCの画面の上では、むごたらしく殺された事件が起きても、僕の右手と咀嚼は止まらない。左手でクリックして犯人探し。ストーリーが進めばまた人が死ぬ。目ぼしい人はいるが、それは見え透いたフェイクで毎回怪しいと思わせる人間は死んでいく。ただ流れていく事象に僕はクリックで流されていくだけ。そういうゲームだ、サウンドノベルは。
(楽しくない……)
ギャルゲーやエロゲーもサウンドノベルだけど、なんかこれは面白くない。勝手にストーリーが進み、それらしいヒントもフェイクのせいで疑わざるを得なくなる。しかし、今はこっちのほうがいい。選択肢がほとんど無い方がいい。女の子が選べるギャルゲーよりか、こっちはただクリックしていればいいだけだから。
謎解きサウンドノベルは、結局は謎解きじゃなかった。一族の家系の呪いとかなんとかで、精霊の悪戯でした―、というエンディングを迎えたとき、僕はマウスを画面に投げてやろうかと思った。謎解きだ! と銘打っておいてそれはないだろう。確かにキャラが独特だし、話の進め方も見やすく、かつスリリングだったから引き込まれる力は強かった。昭和の高度経済成長期を迎えた日本を背景に、未だ残る呪いや死神の恐怖が、文体からにじみ出ていた。ただ展開が斬新というか、なんと言うか……、斜め四十五度に行けばいいってもんじゃないだろう。やってるうちに飽き飽きしていたから、他のゲームと平行してやっていた。だから、一週間とちょっと掛かった。こんなものに時間をかけるくらいだったら、ギャルゲーや積んである漫画を読んだのにな。時間を埋める道具など、腐るほどある。
そういえば、セレナを追い出してからもだいぶ経ったみたいだ。思い返すと楽しい思い出だったな、と独りでごちてみたりも出来る。それほどまでにセレナは遠い、それこそ画面の向こう側の存在と同等のものになってしまった。僕が記憶を取り戻してやろうなんて思ったくせに、そんな自分の中の約束は、もう紙くず同然に消えうせてしまった。灰色世界底辺の住人としてこれからも暮らしていく僕からすると、あの日々は眩しくて眩しくて、夢か妄想か勘違いしてしまうほどだ。真夏の夜の夢のようだった。
今日も今日とて昼からPCをつけた。今日は休みだ。何故休みか。バイト終わりにメンバーが飲みに行くらしい。あの馬鹿な女は僕を誘ってきたが、他の面子は僕など望んでいないだろう? 器用に休んでおいた。もしバイトを入れたならば、帰るときに居心地が悪くて仕方が無い。来て欲しくもない人が来て喜ぶ馬鹿も居ないし、わざわざ傷つきにいくような馬鹿も居ないだろう。誰にも求められていないならば、誰も求めないでいよう。
眼前のモニターが移す素晴らしいセカイでさえただの現象で、灰色の世界の中では幻、空想の泡沫と成り下がる。そんな灰色の世界だって、ゲームやアニメのように、現象と環境がただ変わっていくだけだ。移ろいゆく常識と世界情勢の中で、自分だけが真実。そうだろう? 分かり合えるだとか、ずっと一緒だとか、耳にタコが出来るほど聞いてきたけれど、そんなに残酷な事実から目を背けることが面白いか? 生きるっていうことは、孤独と付き合っていくことだぞ。皆分かっているくせに。
(まぁ……)
それも付き合ってはいけない。だから僕はそれと付き合っていくためにオタクになったのかもしれない。いや、絶対そうだ。現実に出来ない、起こりえないことを僕の変わりに主人公が叶えてくれるからだ、現実には起こりえないから、毎回僕は悲しくなるんだけど、それでもオタクはやめられない。僕な好きな生きがいはこれなんだから。
PC画面上でかわいい女の子は僕に微笑んだ。四つ選択肢がある。この選択肢しかない。実際に話せたのならどんなにいいことだろう。逆か、四つに縛ってくれる分、面倒はないしな、助かる。決まったエンディングに、決まったルートで行けば簡単にたどり着ける。今回は、たぶんこの選択肢じゃないか。
選んでいくうちに、バッドエンディングのルートに入ったようだ。どうやらあの選択肢は間違いだったみたいだ。戻ることにしよう。内心傷ついている女の子に優しくするだけじゃ駄目だったみたいだ。そうして、何度もセーブとロードを繰り返していれば、どうせ時間も思考も忘れる。
PCをつけても、テレビを見ても、漫画を見ても、何一つ面白くなくなってきた。漂うのはただの夜の闇、傍らによりそうのは無。おかしい話だ。普段と何も変わらない部屋で、いつもの僕でいるはずなのに、この零を体現したかのような気持ちはなんなのだろうか。どんなにかわいい女の子も、ときめくシチュエーションも、ルーイン・サーガでさえ、僕の心は動かなかった。所詮灰色世界の産物だと思うと、どうしたって気分は向上しない。
むなしい……。これがその気持ちなのだろう。忘却の彼方に置いてきたはずの、あの日々の記憶は色鮮やかに僕の心のフィルムに映しこまれている。あんなに刺激的な日々はなかった。だって、美少女とのあんな出会いは、灰色の世界にはないはずだったから。待ち焦がれていたはずの僕は、それが訪れたところでそのチャンスを自分の手で逃がしてしまった。あんなつまらない口論で追い出すだなんてどうかしていた。追憶が二次曲線を描いて加速する。そのせいで僕の孤独が飽和を通り越して破裂寸前だ。慣れた毒も致死量ならば死んでしまう。戻ってきてくれと今更思う。