二進数の三次元
冷たく、重く言い放った瞬間。僕の頬に衝撃が走った。ひっぱたかれたのだ。セレナは、ひっぱたいておきながら涙を零していた。顔をぐしゃぐしゃにして、けど、目だけは強く吊り上げて、涙を我慢しようとしていた。
走って出て行く。ドアを開けっ放しにして出て行ったのか、足音が遠のいていく。聞こえなくなるまで待っていた。
閉めに行くその時、開いた玄関のドアから覗く外を見ようとしたけれど。
勢いよく閉めた。
目が覚めた。静かな昼だ。周りを見回してセレナが居ないのを確認する。ため息が自然と部屋に落ちた。機能あんなに怒鳴り散らしたから、隣人から文句が来るんじゃないかとドギマギしている。
(あー、時間危ないなぁ……)
今日は昼の一時半からバイトだったんだ。急いでベッドあら抜け出して準備をする。コーヒーもトーストも二人分用意する必要は無い。スティックシュガーを買う必要もない。ここの二週間くらい、静かな昼なんてなかった。
本当に、セレナは居たのだろうか。突如として消えたせいで実感が湧かない。昨日あんなに激怒し、追い出したにもかかわらずだ。実感も何もないのだが、部屋を見ればセレナの好きなお菓子とか、雑誌が転がっている。面倒なことに、セレナは居た証拠を律儀に残していきやがった。
「まぁ……、どうでもいいか」
セレナの残滓をどうしようか迷った挙句、お菓子は床下収納に、雑誌は机の引き出しにしまって、僕は部屋を出た。
バイト先へ向かう道。いつもと同じ道。新鮮に感じるのもおかしな話なのだが、つまらないと感じだ。もともとつまらない道だ。道行く人とか、車道を通る車とか、赤信号の待ち時間とか。どれもこれもモノクロアウトして、灰色に染め上げられている。
(そりゃ、そうだよな)
特別な時間だったんだ、あれは。むしろ、この風景が僕の生きるべき世界なんだ。やっと目が醒めた。
バイト中、バイトメンバーの女―――「部屋の明かりをつけっぱなし」が話しかけてきた。
「今日元気ないみたいですねぇー」
歳は同じくらい、ちょっと厚めのファンデに対照的に、控えめに書かれたアイライン。染めすぎなのか、痛んだ暗めのブラウンアッシュの髪。セレナの美しさに比べたらかわいそうなのだが、比較にならない。先ず素材から違う。もう一つ言えばオーラも貧弱。一生懸命作ろうとしているかわいさなど、領域に近づけるはずもない。そう、この女もまた、凡庸世界の住人。僕と同じ、灰色の現実に生きる残念な存在だ。
「あー、そうですか?」
この女はよほど話すことが好きなのか、よくメンバーと話している。浮いている僕にも話してくるほどだから、相当だ。
「そうですねぇ。やる気的な? そういうのがいつもより無い? こういうのってなんていうんですっけ? カッキ? ハキ?」
声の端を無意味に上げるな。かわいいとでも思っているのか。と、いうか、僕の様子がいつもより暗いなら話しかけてくるな。
「あー、すいません。そう見えますか」
「あ、違うんだ。そういう風に言いたかったわけじゃないんだけど」
「そうなんですか」
汲み取れよ、この気まずい空気を。お前が作ったんだぞ。だいたい、僕はお前と話していても面白くもなんともないんだよ。この間の飲み会がどーだ、友達の別れ話がどーの、毎回毎回退屈なんだよ。と、心の中でフラストレーションを発散していたら、ようやく察したのかやっと口を閉じた。僕は女からは離れて、無意味に在庫のチェックを行う。この時間帯にはしないことだ。いくらお前でも分かるだろ、この雰囲気と僕の行動で、お前を避けてるということが。
「クロセさーん。在庫チェックの時間、まだですよー」
馬鹿女と接するのは面倒だ。今日は木曜日、ルーイン・サーガの日。この日じゃなかったら、ずっと不機嫌のままだったろう。今日の嫌な時間があってこそ、ようやくのルーイン・サーガだ。
(馬鹿な女ねぇ)
セレナも馬鹿女だったけど、疲れはしなかった。
(未練がましいなぁ)
僕が追い出したんだ。今も、戻ってきて欲しいと思わない。イライラしたり気を遣ったり、そういう人間との摩擦に過敏になることはない。だから僕はこの現実で幻想の世界を覗くことにしたんじゃないか。人と最低限接さず、働き義務を果たす。そうして、自分の趣味のために生きる。親はうるさいだろうが、知ったことではない。孫が見せられないとか、自分の老後とか、そんな問題は就職難の前には取るに足らない。結婚が人生の墓場という言葉を言った人は、間違いなく未婚者に優しい人だ。すばらしい。
無駄なことは今、全て排除するべきだ。ルーイン・サーガを僕の中に満たす準備をするべし。
今日はオープニングがなかなか始まらない。長いアバンだ。確かにあと四話くらいだから、盛り上げる部分の冒頭として使っているのだろうか。アーシェと統治が話している学校の喧騒の中、いきなり夜の帳が落ちた。周囲の喧騒も生徒も消え、妙に漂うは悪魔の気配。二人の周りには悪魔の手下、カコデモンどもが―――。そして急フェードインする新オープニング。原作、つまり漫画にはなかったシーンを使っての、既読者への刺激を促すニクい演出。展開としてはベタだけれど、マシンガン撮影や、俯瞰から一気に引きついていってのアーシェの瞳とか。鋭く尖った完成を持っている監督さん、音響さん、アニメーターの方々に深々と頭を下げるしかない。感服した。ぞわぞわと鳥肌が立ってくる。
新オープニングも、先週までのオープニングのダークな空気を残しつつ、よりハウステクノに近づいた。リズミカルなテンポに合うカットを多めに使っており、材料を生かすテクニックも引き寄せられる材料になっている。サビに入っての過激戦闘シーンのアーシェがかっこいい。戦闘衣装が変わっているカットが一瞬置いてあるということは、覚醒したアーシェも今後出てくる可能性があるということだ。そこまで見せるのか。
(スゲェ……)
漫画の上のアーシェでさえも十分に美しく、気品にあふれつつも、暴虐の使途として暴れまわる姿は描かれていた。けれど、それが動き、なおかつ音楽が乗せられていると、ここまで素晴らしい作品になるのか。
約二十分はあっという間に過ぎて、そしてまた通販番組が始まった。余韻を確かめてテレビをゆっくりと消した。
「神 回 決 定」
「ってか来週からアーシェ『寵愛体』見れるんじゃね?」
「今日で原作からズレたな。1クールだから仕方ないけどさ。俺としてはチャットとヘリオスが絡むシーンも見たかったな」
「今回ヘリオス空気だからなぁ。そこが失敗だよな」
「いや、でも来週活躍しそうじゃん。チャットとフェリオと組んでたし」
「いやぁ、でもこのオリジナルストーリーは面白いと思う。世界観をちゃんと維持して進行してくれればそれでいいな」
終わってまもなく、ネットの住人どもは徒然に感想を述べていく。今日ばかりは一様にいい意味でだまされたらしく、満場一致とはいえないが、おおむねみな褒めちぎっている。僕も書き込んでゆく。今日は荒れることなく、掲示板は盛り上がっていく。
「おそらく『寵愛体』の出るタイミングで面白いか面白くないかが面白さの分岐点なんじゃね?」