二進数の三次元
セレナを待たせると後が怖い。今度バイト行くとき詳しく見よう。魔窟最深部から抜け、早々に女性店員が流れるように本をレジに通していく。エロ漫画があっても、やはり慣れているのか眉を微動だにしない。つまらない。恥ずかしがって欲しいのに。
(……っ。これだから僕は!)
そろそろ変態の性欲を払拭しよう。さすれば女も出来れば定職にも就けるかもしれない。そう思って過ごしてしかるべきだ。いい加減にしよう。せめて、現実世界に妄想を持ち込むのはよそう。自分の部屋の中だけにしよう。いや、セレナがいるから……、トイレ? 風呂? 一人の空間なんて限られてきてしまっている。オタクを卒業しなくては。出来るとは、思えない……、けど。
「セレナ、帰るよ」
「………」
試し読みの冊子を無言で置いて、凍てつく目をして近づく。
「言わんとすることは分かる。今ここで言わないでくれ」
僕より早足でセレナは先に出た。もう二度と連れてこない。セレナのために。何より僕の精神衛生のためにも。
帰り道、僕はセレナから一切話しかけられなかった。僕から話そうとしたけど、何を話しかけても返事すら返ってこない気がしたから話さなかった。
「今日は何のアニメやるの?」
いきなり何の話だ。訳が分からない。
(アニメなんて興味ないだろ! お前!)
僕がアニメ見てるときセレナは寝てるか雑誌読んでるかしていたはずじゃないか。どうした、いったいどうなっている。少し動転してしまう。
「あー、うん。『ぽっぷれんたるぅ〜☆』やるな」
「それ何」
「今日行った―――あの、アニメ、ショップの……、店頭に飾ってあったでっかいポップのヤツ」
「ふぅ〜ん」
空にきらめく星が遠い気がする。月はどこにも姿は見せず、星は薄い雲にさえぎられて弱弱しい。不穏な雰囲気を彩るものはない。
「サタローはあーいうのが好きなんでしょ?」
抑揚がないセレナの声に、僕は怯えながらも正直に答える。
「僕はああいうのは好みじゃない。っていうか、好きじゃない。かわいくみせようというのが目にうるさいし」
「ふぅ〜ん」
家についてからもセレナは僕に対しての反応が薄い。僕の存在を無視しているみたいにそそくさと買ってきた雑誌を読み始めた。いたたまれない。今度は夕飯があるというのに買ってきたお菓子をむさぼるセレナ。食べ終われば、セレナは買ってきた服のタグをはずしてたたみ始めた。
「お菓子食べた手で新品の服さわんなよ。僕がやっておくよ」
引け目を感じていたから、セレナのために何かしてやりたかった。あせって服を奪うようにセレナの手から取って、畳み始める。よくよく見れば、セレナの畳んだ服は、形も折り目も歪だった。だから、そっちも崩して畳みなおす。
「いいか、こうやって畳むんだ」
僕は父親になったような心地で、セレナに優しく教える。だが、当のセレナはむすっと口を一文字に結び、怒りの篭った目で僕を睨むのだ。
「私、自分で畳みたかったんだけど」
アニメショップでの事件以来、初めて感情が篭った声を聞いた気がする。それは突き放すような、冷たい温度。一気に殺伐とした空気が部屋を支配する。僕が畳んであげた服を粗雑に積み重ね、この間クローゼットに急ごしらえしたセレナ自身のスペースにしまう。
「そっか。サタローくらいになると、さわったってだけで女の子の服でもネタになるの? 私の吐いたCO2でさえ喜んで吸ってそうよね」
汚物を見る目が僕に向けられている。腐ったゴミを片付けるように気遣いのかけらもない言葉を僕にぶちまけた。
「お前、それは言いすぎだ―――」
その瞳はやめてくれ。虐げるような視線は、学生時代に何度も向けられてきた。理由無き迫害。
「お前って言うな! ……あんな本がたぁっくさんある所で平然と、ううん、犯罪者の顔してたもんね。そのくらい変態なんでしょ?」
僕は仏じゃない。人間だ。冗談なら今すぐ謝れ。威圧しているつもりなら今すぐ訂正しろ。お前はついに言ってはいけないことを言ったぞ。憤りで足が勝手に動き、立ち上がって言ってやる。
「なぁ、その偏見はなんだよ。言いたいことは分かるけどな……、言い方ってもんがあるんじゃないか?」
震える僕の喉から、煮えたぎるマグマの熱を静かに言葉に出来た。目がかっ開いているのが分かる。激怒を押し黙らせている表情を目の当たりにして、セレナが少したじろぐが、気丈にもセレナも立ち上がる。
「何よ。本当のことでしょ」
「そうだな、その通りだ。お前の言うとおりだ。だけどな、実際に行動に移したこともないし、横暴なお前以上に良識を持ってる。誰とは言わねーけどさ、記憶喪失の誰かさんにとやかく言われる筋合いはないね」
「はぁ? 何でキレてんの! だいたいお前って―――」
「また、そうやって馬鹿の一つ覚えみたいに言いやがって。いいだろお前って言ったって。こっちは服も本もお菓子も買ってやってんだ。飯も食わしてやってる。しかもタダでな! その上てめぇの我侭もこっちは聞いてやってんだ。訳分かんないことばっかのたまいやがって。記憶喪失のてめぇを、何の関係もない僕が! よくしてやってんだろうが! てめぇには恩義ってものはないのか!」
ついに火蓋を切ってしまった。とめどなく荒ぶる烈火のごとき怒り。こっちが怒鳴れば怒鳴るほど、セレナはわなわなする。何故お前が怒る? 僕が正しいだろ? 正常な脳があれば、ここはおとなしく聞き入れてしかるべきだろう!
こともあろうに、セレナは目を吊り上げて言い返してきやがった。
「はぁ? あんたがいいって言ったからでしょ! だいたい私だってこんな気味悪い男の部屋なんかに居たくないわっ! あんたなんてキモくて根暗な犯罪者予備軍の一人が、私みたいにかわいい女の子と一緒に暮らせるなんて一生ないんだから、むしろありがたいと思ってほしいくらいよ!」
言葉の刃でさらに僕の傷口をえぐりにかかる。この期に及んでまだ激昂させたいのか、この雌穴野郎は。
だいたい僕は好きでキモくなったんじゃあ、ない。
好きなものがアニメとか、漫画だったから。それに真面目に向き合ってただけなんだ。
世間がそれを気味悪がっているせいで、僕は肩身の狭い暮らしを強いられてきたんじゃないか。
僕が悪くない、といいたいわけじゃない。ただ、認められないことが腹立たしいんだ。真面目に向き合っていることが、そんなに悪いことなのかよ。真面目に生きろって教わったのは嘘なんじゃないか。自分に正直でいろって教えた奴はどこの誰だ。
こんなのってない。いつもこんな形でののしられ、不当な、傾ききった一般論で扱われるのは、我慢ならない。
「は? 居たくない……? じゃあ出て行けよ」
「今すぐ、出て行けっ!」
噛み締めた歯の間から漏れ、次は咆哮した。悲痛な慟哭で部屋が揺れた。握った手のひらに爪が食いこむ。めくり上がってしまうくらい見開いた瞳に、射すくめられたセレナは、怯えた表情を見せた。今の僕が、それで背徳を感じるはずもない。むしろ逆だ。加虐心が怒りで煽られていく。
「聞こえなかったかよ。出てけ」
パンッ!