詩に関するエッセイ
詩人像の転換
私はかつて、「詩人はかくあるべき」という詩人像を強く抱いていた。詩人とは何よりもその否定性において優れていなければならなかった。それは現実を否定して彼方へと飛翔する者でもあり、伝統を否定して新しい形式を探求する者でもあり、俗世の係累を否定して孤立して戦う者でもあった。そして何よりも枢要なことは、言葉自体を否定する者でなければならなかった。言葉を憎みながらも愛せざるを得ない運命にあるものが詩人であった。
ところが、私はそのような否定性を徐々に失っていった。現実と対峙し和解すること、伝統を受け継ぎ他者と応答すること、社会を内面化し社会に対して開かれていくこと、そして言葉の可能性を素直に認めること。否定というよりは、対象と相互に浸透していくということ。この相互浸透において、矛盾しあいながらも複雑な混成体を対象と織りなしていくことにより、私は「詩人」でなくなってしまった。
これは私にとって一大事件であった。なぜなら、詩人というものは私の同一性をなしており、自ら詩人を名乗ることはなくても、理想的な詩人像と合致していることが私のひそかな矜持であったからだ。その矜持が瓦解する中、私はその瓦解を人生の一大事件として、「詩」の形式で書きたいと強く思うようになった。
さて、ここで私は自らの詩を書く動機が全く変わってしまったことに気付いた。かつて、私は、身体的な叫びのようなもの、痛みの表出のようなものとして詩を書いていた。詩を書く動機は憎しみや外傷であった。だがいまや、私が詩を書く動機は、自分の人生にとって重要なことを詩の形式で繊細にとらえなおしたい、そのことによって人生との相互侵入をより深めていきたい、そういうものにとって代わっていた。現実や他者や社会はもはや否定すべきものでもなく、互いに既に混じり合ってしまったものとして、その混じり合いをより高めるために、私は詩を書いていこうとしているのであった。
そうすると、今や私は詩人像の転換に直面していることに気付いた。詩人とは否定性の権化ではない。それは、詩という形式を用いて世界のあらゆるものとの相互浸透をより深め、より高め、自己と世界の在り方を限りなく追及していく人間である。そうすると、今の私は立派に詩人であった。かくして、私は詩人像を転換することにより、詩人の死を回避し、新しい意味での詩人として自己を把握できるようになった。