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詩に関するエッセイ

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twitter詩



 私はこの一年ほどtwitterで詩を書くということをやってきた。twitter詩の特徴として、(1)非同一的であること、(2)公開性があること、(3)反応がリアルタイムであること、を挙げようと思う。
 まず、twitterは140文字という定型を作り出している。これは俳句や短歌よりも自由であるが自由詩ほど自由ではない定型である。俳句や短歌ほど刹那にこだわるわけでもなく、自由詩ほど大きな構成を考えるわけでもない。いわば、twitter詩は、定型詩というよりは、自由な詩を細分化したものだというのが正しいとらえ方だと思う。
 人間であれ何であれ、ものごとは、同一でない。同一であるということは、一つのまとまりを形成するということだ。ところが、人間は、同じ人間であっても、さまざまな異なるフェーズ・パーツによって出来上がっており、その様々な異なるフェーズ・パーツが非同一的に一人の人間を形作っていることをよく示すのがtwitterだ。通常の長い文章だったら、一つの人間のまとまりを生み出す。だが、twitterは、その人間を細分化する。あるときはあいさつをしたり、ある時は悩んだり、あるときは相談したり、あるときは喜んだり、それぞれの人間の多様な相をリアルタイムに細かく区切り取ったものがtwitterである。ところが、人間というものは、そもそも長文のようなまとまったあり方をするのではない。その時々に細分化された非同一的なものの星座的な集まりとしてあるのだ。そのような、人間の非同一的な要素による星座的集合をよくあらわすのがtwitterであり、twitter詩は、人間の生活を長い自由詩よりもより鋭くより直接的に表しているといえる。そして、twitter詩は俳句や短歌ほどの束縛がないから、その意味でも人間の非同一的な在り方を生々しく直接的に表している。
 さて、さらに、twitter詩は、公開の場で書かれる。それは、他人の無数のつぶやきの坩堝の中に、宛先も書かずに、読まれることも意図せずに、それでも偶然そこに居合わせた人間には読まれるであろうという意識のもとで書かれる。twitterのタイムラインは、儀礼的無関心の支配する場所であり、多くの人が、他人の発言に過剰に反応しないようにしながら、それでもひそかに楽しみながら他人の発言を読んでいるのである。その、他者の臨在の意識と、それでありながら、その他者の臨在が不確定であるという意識、そのただなかで、いわば即興的に詩を書くのである。これは、路上のパフォーマーと似ている。読んでくれる人は読んでくれるだろうが、それ以外の人は一顧だにしないだろう、それでも幸運に読んでくれる人を求めつつ、そういう人がいなくても私秘的な肥やしになるだろうと思いつつ、その引き裂かれた思いの中で詩を書くのである。twitter詩はその意味で賭けであり、賭けに負けてもログには残るという保険が適用されるのである。だから、twitter詩は、誰に宛てたものでもなくても、きわめて話し言葉的であり、書き言葉が通常必要とする密室では突き詰められすぎるものも、割と自然体で砕けた感じで表現される。
 また、twitter詩は、誰かによって、お気に入りに登録されたり、リツイーとされたりする。そのような、作者と読者との一体感が著しいのである。しかも、それは創作の現場ですぐさまおこるものであり、作り手の感興と読み手の感興がほぼ同時に重なり合わされる。そこには一つの言葉を通じた真の意味での共同関係が成立するわけで、コミュニティとか集団とかコストのかかるものよりも非常に容易に、作者の熱狂と読者の熱狂の絡み合いという好ましい芸術体験が出現する。さらに、リツイートについては、自分の言葉が他人の生活の一部になるわけで、また、自分の一部が他人の同一性の中に組み込まれるわけで、これもまたより強い意味での作者と読者との共同関係の成立だと思われる。
 以上、twitter詩は、短詩よりも自由かつ直接的に、また自由詩よりもより非同一的で人間の在り方に即応した形で、人間を表現することができる。そしてそれは、タイムラインに投げられた一つの賭けであり、公開性と秘匿性を併せ持った話し言葉的表現である。さらに、それは作者と読者の同時的な熱狂を引き起こす可能性のある望ましい芸術体験を生み出しうる。

作品名:詩に関するエッセイ 作家名:Beamte