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詩に関するエッセイ

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傍観から批評へ



 現代、私たちを取り巻く情報は過剰であり、かつ高速に過ぎ去っていく。そんな中で、私たちは一つ一つの物事に多くの時間やエネルギーを注げなくなっている。すると必然的に、一つ一つの物事の価値は薄くなり、その反射として、私たち一人一人の価値も薄くなってしまっている。自分が他人一人一人に大きな価値を付与できないということは、他人から見ても同じことであり、全体的に個人の価値が希釈化される。過ぎていく物事をただ過ぎていくに任せ、それに対して何らかの関与をしたり価値を付与したりしない態度を「傍観」と呼ぶことにしよう。
 傍観している人間はみずから傷つくことがない。なぜなら彼は行為しないからであり、行為に対する評価も生じないからである。傍観している人間は、傍観の対象についてただ気分や感情を漏らすだけでよい。そのことによって彼は自らの視点を再確認し、対象について簡単に結論をつけることができる。傍観によって傍観者は変化することがない。傍観は傍観者の自己確認手段に過ぎない。だがそれゆえ、傍観者は自らの価値を相対的に高めることはできないのである。なぜなら、傍観には他者からの評価が入り込まないからである。
 「批評」とは、傍観に対立するものとして、物事の一つ一つにこだわり、物事の一つ一つに参与し、価値づけ、その価値づけを他者に伝え、物事の一つ一つに触発されて自ら何かしらの行為をすること、を意味するものとしよう。あらゆる物事はそれ自身として完成されていない。あらゆる物事は、それについての他者の行為に対して開かれている。傍観とは、物事の開かれに参与しない態度であるが、批評とは物事の開かれに積極的に参与し、その物事をより豊かにし、その物事に様々な価値を付与する行為である。批評は物事を価値づけることによって、その反射として批評者自身の価値も高め、また批評行為に対する他者の反応・価値づけに自らを開いていく行為である。傍観において傍観者は他者に対して閉ざされている。だが、批評において批評者はその行為性において他者に対して開かれていくのである。そして、批評という行為、対象という他者との接触を通じて、批評者自身が変化する契機を作るものである。
 だから、物事を批評することは、まず、物事の価値がどんどん薄められていくことに対する抵抗として、一つ一つの物事をより豊かにより完全なものとしていくことである。次に、物事に対する評価の言説を発することにより、その物事への他者の関心を喚起し、その物事に対するさらなる批評を誘発することである。つまり、物事を社会に対して開いていく行為である。さらに、批評とは、批評者自身が行為することによって、批評者自身をも評価の対象として社会に開いていくことで、批評者に対して様々な価値づけを引き起こし、その価値づけを通じて批評者自身もより豊かに完全なものになっていく。そして、批評することによって、批評者は対象との深い接触を通じて自ら変化していくことも多いのである。
 私たちの持てる資源は限られている。それに対して私たちを取り巻く物事は過剰である。多くの物事に薄く資源配分するのが傍観の態度であり、少ない物事に強く資源配分するのが批評の態度である。傍観は自己確認でありコストも少ないのでやりやすいが、それでは物事も自己も社会に対して開かれていかないし、自己が変化する機会も少ない。批評は物事と自己とを同時に社会に開き、物事と自己をより完成に近いものに近づけ、物事と自己が変化する契機を作る。普段は傍観の態度を決め込んでいても、何かひどく興味をそそられたり、ひどく自己と矛盾するものを見出した場合、そこに批評のエネルギーを投下してもよいのではないだろうか。その結果として豊かなものがもたらされるかもしれない。

作品名:詩に関するエッセイ 作家名:Beamte