詩に関するエッセイ
孤独と文学
孤独というと若者に顕著な病のように思われ、また文学というと主に若者のうちに多くの人がかぶれるものだというイメージがある。だが、孤独は若者が特権的に所有するものではないし、また文学もまた然りである。むしろ、人間は社会化されていくうちにより一層孤独になるのであるし、それゆえ文学への需要も増すのである。
若者のうちは、家族に話せないことでも友達には話せる、そういうたくさんの悩み事があるものである。だが、人間関係も広まり、それぞれの人間関係を壊さないように注意深く接するようにしていくうちに、いつの間にか友人には本質的なことや重要なことが話せなくなってしまう。友人関係を円滑に進めるためには適度な軽さが必要であり、相手にとって重い存在になってもいけないし、相手が自分にとって重い存在になってもいけない。また、友人と自分の間には決して越えられない溝というものがあり、その辺で争うようになってしまったら友人関係は破たんする。そのために、人は社会化していく中で、だんだんプライベートな問題を社会的関係から隔離するようになる。そして同時に、そのような孤独に耐えるだけの自律性が自然と身についていくのである。
だが、社会化された個人にでもプライベートな悩みはある。それは、軽い悩みであれば職場の上司や同僚に気軽に相談できるかもしれない。だが、本質的な悩みや重要な悩みは、もちろんそのような社会的関係の中には投入できない。旧来だったら家族や近しい共同体が担っていたようなカウンセリング機能を、今は専門的なカウンセラーが担うようになっていて、深刻に悩んでいる人たちはそのようなカウンセラーのもとに足を向けるだろう。
だが、カウンセリングの場所を近しい場所に求められなくなった現代人でも、セルフカウンセリングは行うことができる。それが文学である。悩み事を文章化する。それは作品としての完成度はどうでもいい。とにかくわだかまっていることを文章として書いてみる。作品として成立させてしまう。そうすると、それまでの悩みが嘘だったかのように気持ちがすっきりすることはよくある。つまり、近しい場所がカウンセリング機能を喪失した、現代の社会化された個人のセルフカウンセリングの場として、文学の地位は再浮上する。無数のブログ記事や日記の断片、ツイート、そして作品、そういう文学は、若者というよりむしろ、社会化された個人にとってこそ必要なものである。