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詩に関するエッセイ

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言葉の力



 震災以降、「言葉の力」を唱える人たちが現れ、私はそれを頼もしいと思った。なぜなら、「言葉の力」というものは、何よりも言葉の向け先と、その向け先への働きかけを前提にしているからだ。言葉が単なる独り言や日記で終わらず、それが他人や社会、世界を動かしていくことの認識が鮮明に打ち出されたと思った。つまり、言葉の遂行的側面がクローズアップされたことを、私は好ましく思ったのだった。あの人のこんな言葉に励まされた、こんな言葉に元気をもらった、こんな言葉に救われた、などなど、言葉が人とのコミュニケーションで適切に機能していくことへの信頼が確認されたように思う。
 もちろん、古代の呪術的な言語観のように、言葉には何か魔術的な力が宿っていると信じている人は現代にはいないだろう。言葉が発されることで、その言葉の内容がそのまま世界で実現する、そんなことは誰も考えてはいない。だが、「言葉の力」について語られるとき、そこでは、言葉が他人や社会を動かしうること、そして、言葉がそれ以前に自らの思想や感情、世界の在り方を的確に反映しうることへの信頼があったように思う。
 つまり、「言葉の力」や「言葉を信じる」ということが言われるとき、そこでは、個人の浮薄な独白の領域にとどまらない、言葉の射程の広さが開示されたのである。それは、言葉がまずは世界や自己を写し取るものであること、そして言葉が次には他人や社会や世界を動かすものであることの確認であり、そこでは言葉に対する考察が、言葉と自己・世界との関係、言葉と他人・社会との関係の領域にまで広がったのである。
 そうすると、逆説的ではあるが、言葉を信じることが言葉を疑うことに転じることになってくる。言葉を信じることで、言葉とそれを巡る広大なネットワークが視界に入る。すると、言葉がその広大なネットワークでうまく機能しない面も見えてくるのである。例えば、言葉が本当に自分の言いたいことを適切に言えているかどうか。あるいは、善意で他人に向けた言葉が却ってその他人を傷つけていないかどうか。さらには、積極的に社会に流通させた言葉がその広まりゆえに却って重みを失っていないかどうか。
 だがもちろん、言葉を疑うことはさらに言葉を信じることにもつながる。つまり、具体的な言葉を発する作業において、それぞれのケースで、言葉がうまく機能したりしなかったりするのである。言葉がうまく他人を動かしたり、うまく自分を表現したりするときには言葉を信じる方向に向かうかもしれないが、言葉が思うように他人に届かなかったり、うまく自分を表現できなかったりするときには言葉を疑う方向に向かう。
 私たちは、言葉を信じる自由と言葉を疑う自由、その両方を同時に手に入れたのである。そして、具体的に言葉を発する実践において、時には言葉を信じたり、時には言葉を疑ったりしてみて、少しずつ適切な発話を生み出す実践的な知恵を獲得する方向性へと足を踏み出したといえよう。そして、詩もまた、そのような営為から切り離すことはできなくなってくる。詩もまた、単なる独白や日記で無批判に閉ざされるのではなく、それがうまく自己を表現できているか、それが実践において社会でうまく機能しているか、そのような批判にさらされるものとして変質しつつあるのではないか。もちろん、単なる独白や日記で終わる詩が悪だと言っているわけではない。だが、「言葉の力」の思想が切り開いた、言語の象徴的・遂行的側面への意識を生かしていくことにより、詩もまた新たな展開をしていくのではないだろうか。

作品名:詩に関するエッセイ 作家名:Beamte