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詩に関するエッセイ

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私の批評



 批評というものが、何か新しいものを創造する表現であるとするならば、私の書くものは批評ではない。私の書くものは、作品と理論とがかみ合ったところで互いがどのように相互融解するかであって、そこに登場するものは既存の作品と既存の理論が主である。確かに、その作品にその理論を適用することの新しさ、既存の理論の応用の新しさはあるかもしれないが、それを超えた真なる創造はないといってよい。いわば出来合いのものの組み合わせの新しさがせいぜいあるにすぎず、それを超えた、私の独自性に根差した全き新しさなどというものは微塵もない。
 というのも、私が書くのは批評というよりはむしろ論理なのである。論理とは誰もが理解できるものであるし、ことさらに新しいものでもないし、読む努力さえあれば誰もが共有できるものである。作品は様々な感興を引き起こすものである。だが、私はそのような感覚的な感興にはあまり興味がない。美的体験やその神秘性そのものには興味がない。なぜなら、そのような体験や感覚は明確に語りえないからだ。明確に語りえないことよりも明確に語りうることを語った方がより多く語れるわけであり、その方が作品に対してより生産的な協力になりうると考えるのである。作品は美的感興を引き起こすと同時に、それを可能にしている論理構造を持つ。そして、作品について多く語りうるのはその論理構造の方なのである。だから私は、作品の論理を語ることを批評の眼目としている。
 さらに、私は作品の特殊性をことさらに主張しようとはしない。それは私が作品の論理に着目していることからも分かるように、作品が明らかにしているより普遍的な問題を示すことで、そのジャンル自体の問題に対する意識を喚起したいからである。作品の特殊性は最終的には語りえない。それは印象的にしか語りえないのである。特殊性が理論によって語られ始めたとき、特殊性は真に特殊であることをやめる。だが私はそのような擬特殊的な作品の在り方を、作品の特殊性として扱いたいと思っている。つまり、作品の特殊性とは、特定の理論によってよりよく解明されうるという、その点にあると考える。作品により、どの種類の理論によって解明されるのが適切かはおのずと異なってくる。逆に言えば、どの種類の理論によって解明されるかに作品の特殊性が現れるのである。私はそのようにして作品の特殊性を語るのだ。
 そして、批評の主体は明確に私自身とは異なる。批評とは先に述べたように、作品と理論との相互融解であり、そこではパズルが解かれるかのように作品と理論はそれぞれの在り方が暴かれるのである。それは一つのゲームに過ぎない。作品が与えられ、それに適切な理論を選び出し、それらを組み合わせるという知的遊戯に過ぎない。知的遊戯の主体は私自身ではない。それは、作品に適合する理論を語る主体であり、私自身の主張を語る主体ではない。作品が理論を引き出す、そして批評の主体がその理論を語る、だがその批評の主体はゲームの主体にすぎず、決して私自身ではないのである。
 私は偶然性や無意識性を愛する。だから、批評に私の無意識の思潮が表れることもよくあるだろうし、私の批評が拡散されることで思いがけない読者に出会うこともあるだろう。私はことさらに自らの思潮を表に出そうとしないし、ことさらに自らの批評を誰かに読ませようとはしない。そこには、私の意図を超えた無意識性や偶然性が働いており、私はそのような不確定性を愛したいのだ。

作品名:詩に関するエッセイ 作家名:Beamte