詩に関するエッセイ
社会科学と文学
文学と社会科学は無縁であるかのように思われがちだし、実際、文学をやっている人間が社会科学に明るいかというと必ずしもそうではない。むしろ、社会のことなんてそれほど興味がない人がたくさん文学をやっているのである。だが、それではおのずとその文学自体にも限界が生じてこないだろうか。
文学は私的なことのみを描くのではない。そもそも純粋に私的なことなど存在しない。私的な領域にも公的なものは入り込んでしまっていて、逆に公的な空間にも私的なものは入り込んでいる。この、パブリックとプライベートの二分法が成り立たないという認識、これがまず社会科学への関心を持つために必要なことである。人間は社会によって規定されていると同時に社会を作っていく存在であるということ。まずはその自覚から始める。
我々は政治というものに関心がある。そして、政治における力関係などは、我々が日常生きているときにも遭遇するものである。友人関係や職場の関係、そこにおけるパワーの構造は、政治学が問題とするパワーの構造とパラレルである。だから、我々が文学において人間関係を描くとき、そこに政治学的な認識があるとよりよく描きやすい。
それに、ミクロ社会学は社会の微小な相互行為に着目する。そこでは、個人の役割であるとか、個人間の相互作用で何が行われているかが解明される。それはまさに、文学が扱う人間関係そのものであり、ミクロ社会学の認識が文学へもたらす内容は豊富である。
そして、経済学もまた文学にとって有益である。経済学は、その理論を構築するにあたって様々な人間観を打ち出す。典型的には、エコノミックマンと呼ばれる、利己的で合理的で知識のある人間を想定したりするが、それは、人間とは何かという人間観の問題につながっている。さらに、経済学は、社会の物質的な法則を見出していくことにより、個人を超えた社会というもの、個人の意図を超えて集合的に成立する法則というものを明らかにすることで、個人には回収されない社会というものの存在を明らかにしてくれる。ところで個人には回収されない社会こそ、文学の外枠をなしているものであって、その外枠の認識は、文学自体に対する認識も増すであろう。
さて、人間は様々な規範に従って生きている。人間の倫理というものは人間の実践そのものであり、倫理を規定しているものとして代表的な法は、倫理のひな形として、人間の実践を明らかにするのに役立つ。法学は法の構造を解明することによって人間の実践の構造をいささか誇張した形で説明してくれる。さらに、法は制度や社会を規定することによって、そこに向き合う人間、そこに所属する人間の在り方も明らかにする。法に従い法に対峙する人間、という見方は、文学の行いにおいても役に立つに違いない。
つまり、社会科学は、人間の私的な在り方を明らかにすると同時に、公的な空間の構造を明らかにすることによって、公的な空間と対峙し公的な空間を内面化している人間の在り方を明らかにし、さらには個人を超えた社会の存在に目を開かせてくれる。人間は社会的な動物であるのだから、人間を描く文学もまた社会性を備えていると望ましい。文学が社会性を備えるにあたって重要なのが、文学者が社会的な自覚を持って社会科学をそれなりに修得することであろう。