詩に関するエッセイ
人生を消費しないために
ただ生きるということは、人生を消費するということである。自ら人生を生きながら、それが過ぎていくのを受け身でしか眺めることができない。確かに記憶は残るかもしれないし、記憶に基づいた語りもなされるかもしれない。だが、記憶の語りには、自らの自意識による記憶の自動的な修正こそはあれ、そこに能動的な感受・思考・認識という批評的態度が欠けているのだ。文学の一つの意味は、過ぎ去っていく人生について、それを十分批評的に味わい、ただ消費するだけに済まさない点、つまり、人生を大事にして人生からより多くのものを引き出して行こうというという点にあるのではないだろうか。
文学作品は書き手の生活の質に依存する。生活の質というのは、人間の意識や態度や環境の変化によりもたらされる、生活のそれぞれに異なった肌触りのことである。どんなに虚構を装っても、例えば一人暮らしの大学生と妻子を持ったサラリーマンでは自ずと書くものに違いが生じるであろう。そして、生活の質は人間が生きていく上でどんどん変わっていく。とすると、人生を消費しないためには、それぞれの人生の段階に応じて、それぞれの質感を十分味わい、次々と変わっていく生活の質を見逃さず批評し作品化することが一つの手である。
書き手は何のために作品を書いているのか? それは一つには、自分の人生からより多くのものを能動的に引き出すためである。それは単なる生産ではなく、実はただの排泄なのかもしれない。書き手が感極まって作品をものすとき、そこには常に「何者かにさせられた」感が伴うかもしれない。書き手は、今日の出来事を余さず話す主婦と何も変わらないのかもしれない。だが、書き手は常に他者の視点を内面化することで、単なる排泄を超えることができる。他者の視線によって鍛え上げられ、他者の視線に耐えうるものを書こうという気持ちが無意識的であれ書き手に備わっていれば、書かれるものはいかに自動的に書かれようと作品としての人生批評の強度を備えるであろう。
人生を消費することは、実はとても幸福なことだし、いかに人生をやり過ごすかということもまたとても重要なことかもしれない。人生にいちいち躓いていては幸せになれないかもしれない。だが、私が言いたいのは、例えば子供時代から青春、青春から成熟、成熟から老成といったような生活の質の変化に対して、そのときどきに自分の人生を反省するというそれだけのことであり、人生に躓くというよりは人生の流れをより幅広くするためのものである。文学とは人生を消費せず、それがたとえ虚構であれ、人生から数限りない驚きや深み、楽しみを引き出すための一つの手段であろう。