詩に関するエッセイ
庶民として詩を書くこと
私は庶民である。ごく普通のサラリーマンであり、その他大勢のサラリーマンと似たような暮らしを送っている。世の中の大多数の人間と同質な生活をしているということ。私はそこに平凡でありながら限りなく豊かなものを見て取っている。詩は孤独な魂の産物であろうか。あるいは詩は有閑者や無職者の暇をつぶすためだけにあるのだろうか。
詩は人が多くを感じる所、人が多くを考える所にどこでも存在する。確かに人が孤独である時沢山のことを感じ考えるのかもしれないし、時間がある人も沢山のことを感じ考えるだろう。だが、普通のサラリーマンが普通の仕事をするとき、同じようにたくさんのことを感じ考えているし、実際は孤独者や有閑者以上に多くのことを感じ考えているのである。そこに詩の源泉は厳然として存在する。
我々は何も特殊な幻想や特殊な状況を設定して詩を書く必要などない。もちろんそういう詩があっても構わないのだが。それより、庶民として生きるというまさにそのこと自体に、豊かな詩の源泉があると私は考えるのである。そして、庶民として生きるということは、自分を特権者として考えないということである。視線が水平的で愛情に満ちているということである。長い間詩人が失っていたものはこの視線の水平性と生活に対する愛情ではないだろうか。
もちろん、ただの庶民として生活に埋没していたのでは詩を書くことはできない。我々は「自覚した庶民」として、視線に上下の振幅を付与したうえで、高いところからも低いところからも同時に庶民生活を描かなければならない。
働くことは喜びにも苦しみにも満ちている。我々庶民は働くことを通じて多くのことを感じまた考えている。そこで感受性がフルに稼働しているのだ。だが、働くことを描いている詩のなんと少ないこと! 感じ考える所があるところに詩が発生するとするならば、労働こそが最大の詩の源泉であろう。だというのに、なぜ人はかくも余暇の随想ばかり詩にするのであろうか。庶民として、働くものとして、感受性の働くままに詩を書いていこうではないか。