詩に関するエッセイ
詩の文脈化
詩を書く人たちは様々だ。だが、一部の詩人たちは何を書いても金太郎飴であり、そこに詩人独自の書法は見えこそすれ、詩の世界の深まりや人間洞察の深まり、思想の強度が見いだせないことがよくある。確かにそういう詩人たちは技術的に優れている。だが、その技術の卓越に安住していないだろうか。一つのスタイルを確立するのは確かに容易ではないし、そのスタイルを維持するために費やされる機知の量もかなりのものであろう。だが、技術は結局原理的に語りえない知識であり、それは職人的に磨くよりすべはないものだ。職人がものづくりの技術を磨くように、一部の詩人たちは技術を最上の目的とし、詩の完成度を高めることのみに執心しているように思える。もちろんそれは悪いことではない。美しい工芸品、贅の凝らされた工芸品はそれだけで価値がある。その価値を私は否定しようと思わない。だが、その価値を追求するあまり、詩というものを秘されたもの、言語化されない次元での修練によってのみ高みに到達できるもの、そういうものに矮小化してしまっていないだろうか。
それは、詩の文脈拒否という論点と関わってくる。技術派の詩は自然や歴史・人間関係という詩を巡る文脈を拒絶し、あるいはそういった生臭い文脈性を韜晦するところに成立すると私は思っている。生活語を排したり、抽象化にこだわったり、そこには生きている人間の雑駁な広がりが巧妙に隠されている。だが、それは隠してしまっていいものなのだろうか。文脈を韜晦し、様式的に孤立し、様式の再生産を繰り返す詩人にはどこか欠けているものを感じる。それは、自然に対する深い思考であったり、歴史に対する透徹した洞察であったり、他者との関係性の悩みであったり、人生に対する見通しの強固さだったりする。そもそもこういったものはあからさまに言語化されないと思考が深まっていかないものなので、そこを韜晦して言語化しない技術派詩人がこういった点について考えが深まるはずがないのである。私は詩を工芸品の一つだとは考えない。詩は人間を取り巻く様々な文脈と人間が相互作用するところに発生する極めて豊かなものであり、そしてその相互作用は詩を美しくするためにことさら韜晦する必要はなく、むしろ韜晦が文脈についての認識を非言語化し妨げている。だから私の立場としては、文脈を積極的に言語化し、詩を語りえない技術の孤城に揚げ奉ってしまうのではなく、詩をより開かれたものとし、読者がそれを生活の次元で十分享受することができるようにすることである。詩を高尚な趣味的なものとするのではなく、生活の中で生きていく言葉とすることである。技術を極めた詩人の方々には、ぜひとも文脈の側に降りてきていただいて、自然・歴史・他者・人生への考えを深め、さらなる新しい技術の開発に励んでいただきたい。一度文脈を拒絶しても、再び文脈の側に降りてくることで、技術的にも得ることは多いだろうし、何より思想的に得ることが多いだろう。それが技術の洗練にフィードバックされていくのではないだろうか。