光と陰、そして立方体
大阪総合興信所 中道伸吾
興信所というのは素行調査等をする所で世間一般に言う探偵であることは織恵も知っている。その興信所が何を調べているのは今さら聞かなかった。
「おそらく同じ理由でここへ来ました」
数十分前に梅田であった逮捕劇を見て同じようにここへ来た事を説明すると、織恵は驚いて中道の顔を見た。
「今から私の家に行きます。いいですか?」
「いいでしょう、私も伝えておきたいことが、あります」
不用意に異性を家に上げる事はない織恵だったが、中道の雰囲気等を十分に判断し、光がいることもあり織恵は二人を招き入れることにした。眠そうな表情をしていた光は部屋に入るとすぐに織恵のベッドに転がり、程なくして動きが止まった。二人の大人は光の様子を確認してから口を開いた。
「依頼主は……光くんのお父さんなんですね?」
「残念ながら違います」
「どうしてですか?」
「既にいないからです」
「いない?」
織恵は想像したくないことを思い浮かべた。調査の内容について直接関係のない一学生に教えてくれる筈もない。織恵の頭の中で何かがぐるぐる回っているのを中道は見落とさなかった。
「これから話す事は独り言です」
その一言で、中道に背を向けて光の寝顔を見ていた織恵のぐるぐるはピタッと止まり、織恵は恐る恐る振り返る。
「拒まれるのでしたら黙っておきます」
織恵は少し考えてから首を横に振った。
「私には聞こえません」
「そうですか――」中道は頷くとゆっくりと話し始めた。
一回の過ちだった。当時高校の新任教師だった光の父は、入学間もない光の母真凛と関係を持った。その後真凛は妊娠して退学、父も退職を余儀なくされ、認知と親権をめぐる泥沼。弱味につけこみ慰謝料と養育費の請求額が上がり今年――、
「わかりました。もういいです」
光の父は自分の失敗を一人で抱え、一人で結論付けた。身勝手と言える短絡的な結論に織恵は言葉が出なかった。
「話題を変えましょう。依頼主は京都にいる光君の祖父母です。それまで光君の存在すら知らなかったそうです」
「それを知って訴訟に踏み切ったということですか?」
中道は首を縦に振った。
「依頼主は責任のある方です、光君を引き取りたいと言っています。裁判になれば結果は明らかでしょう」中道は光の枕元にあるキューブを拾い上げ、完成させた。もう少しのところまで出来ていたので、それが出来るのに一分とかからなかった。
「依頼主が数学の博士なんですよ」
織恵は中道がテーブルに置いたそれを手に取った、本来の幾何学的な姿はやっぱり美しい。光がこれに興味を持った理由がわかるような気がした。
身柄を拘束された真凛に監護能力がないのは明らかだ。中道の調査の結果、真凛は薬物犯罪で執行猶予中の身分であり、今回も警察の内偵の対象者だったと思われる事を聞かされた。
養育費と称してせしめたお金の使い道も容易に推測できる。結局彼女は自らのカードとして光をそばに置いていただけだ。光がいれば養育費や公的扶助も入る。さっきあの現場で聞いた「チクショウ」の意味が解った。織恵は光の寝顔を見ると、彼女の中で言い様のない怒りがこみ上げて来た。
「選択するのは光君自身です。選択の幅を与えないのはフェアでないと思います」
「では、どうすれば……」
「今依頼主に引き渡すと誘拐したと言われかねません。決着がつくまでは児童相談所に保護してもらうのが最善策と判断します、本人には辛いでしょうが」
光を引き渡すと、織恵から光と会う事はなくなるだろう。施設は今ほどの自由はないし、祖父母に無事引き取られたらこの街からはいなくなる。学生の織恵には引き留める力も権限も当然ない。それを考えると織恵は光と出会ってから今までの事が頭の中を駆け巡った。
確かに光のためには悪くないかもしれない。ただそれは結果と効果が未知数の選択であり、織恵はすぐに踏み込む事ができなかった。
「明日……、明日私が連れて行くから今日はここにおいてあげていいですか?」
織恵は小さな声で答え、寝ている光にタオルケットを掛けた。
「私より貴方が説明してあげた方が良いと思います。依頼主には早急に措置をとるよう連絡しておきましょう。光君にはこれを渡しておきます」
中道は施設宛の文書をテーブルに置き、織恵の入れたお茶に手を付けることなく、名刺の裏に携帯電話の番号を書き、帰って行った。
「可哀想過ぎるよ……」
二人だけになった部屋で織恵は光の寝顔を見た。日頃は勢いのある関西弁で捲し立てる、子供らしくない子供なのに、その寝顔は意外にもものすごく安心した、子供らしい表情をしていた。
作品名:光と陰、そして立方体 作家名:八馬八朔