光と陰、そして立方体
二人はアパートの回りに転がっているゴミ袋や、壊れて放置されたテレビの間を通り抜けて玄関にたどり着いた。お互い何も喋らなかったが、それでも会話はしっかりできていた。
玄関の扉が開くと、まず最初に嗅覚が警戒信号を発すると、次いで視覚、触覚と続いて信号を出した。
そこから発するのはタバコのにおいとお香のにおい、そして床一面に散乱するゴミのにおい。そしてゴミは一面に散乱していて足の踏み場もない、というか床面が見えずここが洋間なのか和室なのかすらわからない。食べ残したジャンクフードの包みや、ちゃんと消してなかったらあわや大惨事になってるような灰皿なんかが転がっている。「こうなる前に途中で気付かなかったのか」と言う冗談さえこの場所では言えず、織恵は全身に逆毛が立つのを感じた。
「土足でエエから入ってーな」
織恵は躊躇したが、光が靴を履いたまま家の中にズカズカと入っていくので織恵も遠慮するのをやめた。
「ここからが俺の部屋、ここでは靴脱いでな」
光が部屋に入ると、織恵も続いた。ここだけはキレイに掃除がされていて、小学生にしたらかなりしっかりした方だ。本棚に並んでいる本を見たら、雑誌か漫画くらいしかない自分のそれと比べて恥ずかしいと思った位だ。襖の向こうとこっちではまるで別世界で、はたして光の本当の姿はどっちなのかがわからず織恵はさらに困惑した。
織恵も光に倣って靴を脱いだ。置くところがないので、光の靴を取って、そこに自分の靴と光のそれを重ねた。
「色々ツッコミどころあるでしょ?」
横で黙っている織恵の視線が何を言っているのか光には解る。織恵も言葉を必死に探したが、いい言葉が見当たらず沈黙が続いた。
「この部屋だけは自由に使わせてくれるねん。けど、それ以外は絶対に触るなって……ほら、見てみいな。このアザ」光は前髪を掻き分けて額を織恵に見せた。
「ほかも片付けたろ思てちょっと触ったらどえらい調子で灰皿投げつけられたんや」
「それって立派な児童虐待じゃない!」
「でも俺には行くところが、ないねん」光は頷きながら話を続けた「しばらく真凛がおらへん時があって、オバアに引き取られたけど、そこも居づらくて逃げて来た。結局ここにおるのが一番マシやねん。真凛は夜になったら外へ出る。何をしてるかは知らんけど、お金はあるみたいやし」
光は半ば諦めた感じでそう言い捨てた。
「そういや光くん、お父さんは?」
素性を知らなければ光は賢そうに見える。趣向といい、頭の回転といい、さっき見た「真凛」の血を多く引き継いだようには到底見えなかった。となるとさっき部屋から一緒に出ていった男性が光の父では無いと織恵は直感した。
「父親はおらへんねん、会ったこともない」
「そう……」
光は織恵が項垂れるのを見た、言葉が見つからないのだろう。自分のために心配してくれる存在が残念がっている。光はその姿に今までにない、実母であるはずの真凛に対してさえもない温かい何かを感じた。
「なあ、織恵姉さん」いつもの漫談口調でない光の言葉を感じて、織恵は頭を上げた「俺から質問してええか?」
「いいよ。何でも言って」
「俺のこと変やと思わへんの?」
「変って、何で?」
「俺の周囲にいる人はみんな俺を避けよるねん。教室の奴らも、学校の先生も……」
光は答えを待つ前に机に置いたキューブを手に取った。その様子を見て織恵はゆっくりと考えて言葉を探した。
「らしくないな、光くん」織恵は自然な笑顔を見せる「そういう環境の子供は少なからず、いるよ。悪いのは環境と、理解しようとしない人であって光くんでは絶対にない」
織恵はそれから大学で専攻している内容を簡単に話し始めたが、彼女自身もまとまっていないのに小学生の光には解る筈もなく、次第に光は退屈し、初めて彼を見かけた時と同じように、キューブを回していた。
「質問しといて無視しないでよね……」
織恵は小さくツッコミを入れるが、光が照れを隠してそんな態度をとっているのが解っていた。
「おっ、でけた」
光はキューブを織恵に見せた。完全に揃った青の一面に加え、裏側の角のキューブがしっかり揃って、白いバツ印になっている。
「ちゃんと聞いてるで。織恵姉さんの話」
光はキューブの四角を指でなぞったあと、再び作り直す。偶然でないことを確かめていた。
「今は子供やからどうにもならへん。でも俺は真凛みたいに腐らへんで」
「強いな、光くんは」織恵はキューブを取り上げて、揃った青の面を向けたあと、数度回してたちまちモザイク模様になった。
「光くんはこれと一緒でね、本当はスゴいのに誰もまともに理解しようとしないのよ、難しすぎて。その気になったらできる筈なのにね、解る人には解るわよ」
「織恵姉さんも上手いこと言うやん」
片親の子供、親が未熟な時期に産まれた子供は同じ道をたどる傾向が強い、それは必要な事を教えるべき親が揃っていなかったり大人になっていないからで、知らないまま大人になってしまうということだ。しかしこれは傾向であって、定められた道筋ではない。
現状を知り、環境が整っていれば状況は打開できる、そのためには本人の意思が不可欠だ。織恵はそんな事を言いたかったのだが、光には必要ないような気がした――。
作品名:光と陰、そして立方体 作家名:八馬八朔