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千尋ちゃんと大河くんと薫

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 ○

「結局誰? やっぱり本当に大河なの? 」
「教えない! でも少なくとも大河じゃない! 」
 私と薫はなんとかそれ以後のミスを出さずに約四十冊の製本作業を終えて、職員室に届けた。時刻は既に六時を回っていて、少し驚いた。
 今は帰路につくために昇降口に向かっているのだが、しかし薫がさっきからうるさくなってしまった。
 さっき、私が幼馴染という単語に反応したのでどうやら薫は私との共通の幼馴染である安達大河を連想したようだ。
 ちなみに現在の安達大河は剣道部のインテリメガネと化していて、顔と頭はいいが性格がぶっきらぼうすぎるとの評判だ。嫌いじゃないけど、今も昔も私が恋愛感情を抱く相手では少なくともない。
「じゃあこっちも好きな人言うから、そっちも教えてよ」
「嫌、どうせ『いない』とか『お母さん』って言うつもりでしょ」
「バレたか……でも、千尋がほかに好きになりそうな人って誰? 」
「そんなやつ初めからいないって」
「だったらなんであんなに動揺したの? 」
「あんなこと突然訊くからに決まってるでしょ」
 本当は図星を突かれたからである。
 ただその相手が大河ではないのは本当だし、薫にだけは絶対に知られるわけにはいかない。
「うーん」
 昇降口にちょうど着いたところで、薫が呟いた。
「ひょっとして兄ちゃん……」
「……ああ、そう来たか」
 薫には四歳年上の神崎翔という兄がいる。実はとある事情で今でも頻繁にメールのやり取りをしているので、親交がないわけではないが、それも正解ではない。
「でも兄ちゃんはないかなあ。勘だけどもうちょっと年近そう」
「しつこいな、初めからいないっての! 」
「でも必死に否定するところが――、」
「あのメガネを好きだと思われるのが嫌なんだってば! 」
「ふーん……」
「……何?」
 それは不意打ちだった。
「必死で否定する千尋ってなんか可愛いね」
 私の中の時間が一瞬止まった。
「……そ」
 止まった一瞬の間に考えて、何とかして返した言葉がそれだった。
「それじゃ、これから近くのスーパー行って食材買うから。また明日ね」
 そう言って、「あのスーパー地元より安いんだよねー」と言いながら、さっきまでの粘りが嘘のようにあっさり引き上げた薫は、とっとと靴を履き替えて昇降口から出て行ってしまった。
「………」
 それからたっぷり五分くらい、私は誰もいない昇降口で立ち尽くしていた。
 誰かが――多分薫が私を呼びかけた声にも反応できず、鉛の入った人形みたいに私は動けなかった。
 さっき彼氏は居るかと訊かれて、私がどうしてあんなに動揺したのか。
 私がどうして幼馴染という言葉にも反応したのか。
 私がどうして今こんなに幸せなのか。
 そんなのは単純で、ついでに言えば、薫と話がしたくて仕方なかったのも大河の事が好きだと思われたくなかったのも同じ理由だ。
 薫が誰だか知りたがっていた相手は、あろうことかさっきまで私の隣にいた。
 ただそれだけ。
「……今日はプレミアム買ってみるか」
 私はポツリと呟いた。
 呟いて、私って単純だなあと思った。