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田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
novelistID. 51015
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久保学級物語(後篇)

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(7) 田辺小学校の修学旅行は当時は伊勢・鳥羽方面が定番だった。また、時期的に6年生の2学期に実施されていた。伊勢神宮を参拝し、鳥羽で一泊するコースは大阪の小学生にとって魅力的であったのかもしれない。しかし、「ヒサシ」は何よりも蒸気機関車に乗ることができるのを楽しみにしていた。当時はバス旅行ができるような観光バスは走っていなかったし、修学旅行の専用列車を仕立てることができるのは国鉄しかなかった時代である。
 旅行の当日、少し曇っていたが皆な元気に校庭に集合した。そこからは徒歩で、国鉄阪和線の南田辺駅まで歩いて10分足らずの距離であるが、1組から6組まで総勢300人余の集団が駅に揃うにはかなりの時間がかかった。途中、大くすのきで知られる法楽寺の前を通る、ここからヒサシの家まではすぐの距離にあり、夜になると法楽寺の屏に囲まれた墓地のそばを通るのを怖がった。火の玉が上がってこちらに来る夢をよく見た。
 南田辺から天王寺までは2駅で、乗り切れなかった組は次の電車に乗って天王寺駅に集合した。ちなみに阪和線は運行開始された昭和4年から複線電化されており、その前身は阪和電気鉄道あった。
 天王寺駅は大阪南のターミナルの中心的存在で、ここには関西本線の天王寺駅があり、修学旅行専用列車が待機していた。関西本線は湊駅(現在は難波駅)と名古屋駅を結ぶ幹線で、当時は全国に先駆けて気動車キハ10系が運転されていたが、修学旅行専用列車には主にC51形蒸気機関車が使われた。
 機関車を2両繋ぐ重連で客車9両を牽引して天王寺駅を出発した。窓を開けると煙が入るので閉めるように言われていたが、ヒサシは窓から体を乗り出して機関車の勇姿を見続けていたので皆から何ども怒鳴られた。
 三重県亀山駅からは参宮線に入り鳥羽駅に至るが、現在は紀勢本線と名前が変わり、途中多気を経て紀州和歌山で阪和線とつながる。この修学旅行専用列車は伊勢駅までで、小学生たちは下車して伊勢神宮を参拝することになった。
 そこで昼食の弁当箱を開くが、皆んな家から持参したものである。ヒサシは前の晩に母に作ってもらった卵焼きと魚肉のハムを細かく刻んだちらし風弁当を食べた。彼の大好物で、こういう時にしか食べることができないご馳走でもあった。伊勢神宮の鳥居の前で撮った記念写真には元気な顔をして笑っている。肩からビニールのカッパがかかっているので少し雨が降っていたのかもしれない。
 鳥羽駅まで再び参宮線に乗り宿泊先の錦浦館に到着した頃にはヒサシは極度の腹痛に襲われていた。嘔吐物から魚肉のハムが腐っていたことがわかる。医者が呼ばれて食中毒と診断され、久保先生の介護を受けることになったが、恥ずかしさで布団にもぐったままでいた。その夜は、市内を散策することになっていたが出かけられない。
 「先生、皆のところに行っていいよ」と言うのが精一杯だったが、先生は聞き入れなかった。楽しみにしていた枕投げはできなかったし、先生から何を聞かれても「うん、うん」と答えるしか覇気がなかった。
 次の朝、朝食がとれるまでに回復した、医者が打った注射が効いたのかもしれない。ミキモト真珠島へ船で渡る頃にはいつもの元気を取り戻していた。二見ヶ浦に来たときに、思い切って二見興玉神社で絵馬を買い、「運転手になれますように、久保先生ありがとう」と書いて奉納した。その後も二見興玉神社を訪れる度にあの日のことを思い出し、本当に運転手になれたことに感謝し合掌している。

 私たちが小学校を卒業した後も、久保先生は4年間田辺小学校に在籍された。そして、50歳を区切りに教員生活を退かれた。その最後の年にもう一度6年生を受け持たれたが、私たちのほとんどはそのことについては知らなかった。私がそのことを知ったのはずっと後の、先生の葬儀が行われた会場でのことであった。