久保学級物語(後篇)
(8) 久保先生逝去さる
「ゆう」はいつもの通り大学のゼミ室で4年生のゼミを行なっていた。男子6人、女子2人のゼミ生はゆうの「文化論ゼミ」に興味を抱いて専攻した学生であり、3年生からゆうゼミに所属して卒論研究を続けている。今年は卒論を仕上げなければならない年で、10月頃にはほぼ仕上がっていなければならない時期であるが、まだほんの一部を書きなぶった程度である。このような進捗状況にも激を飛ばすことなく、研究成果の発表を聴きながら、彼はある感慨に耽っていた。
「今年度のゼミ生を送り出せば全てが終わる」実は、彼は昨年M大学を依願退職したが、その時3年生であったゼミ生が卒業するためにはゼミ単位の取得が必須であり、そのため1年間非常勤講師として卒論指導を続けることになった、それが大学側の方針にも沿っていたからである。そのゼミのプレゼンの最中にゼミ室の内線がなった。クラス会幹事の「ヤスオ」から久保先生逝去の知らせが入ったのである。
ご高齢で、最近は健康も優れていないと聞いていたのでヤスオの電話に落ち着いて応対ができた。今夜が通夜、明日が葬式でいずれも大阪府下の藤井寺の葬儀場で行われるという。ゼミが終わってからでも間に合うはずだ。そう考えてゼミ終了後、大学から自宅に向かった。
喪服の用意をして車を飛ばしても通夜の時刻には着くことができるであろう。しかし、今日は妙に身体が疲れていると感じた彼は「無理をしてはダメだ」と思い、今夜の通夜出席は見送ることにした。
次の朝、車を飛ばして藤井寺に向かった。もちろん葬儀場の場所はネットで確かめたので余裕をもって着けるだろうと踏んでいたが、インターを降りたあと道を間違えたので遅れて着いた。彼の車にはカーナビはない、一端道を間違えれば元に戻るのが大変である。
控え室にはひとけがなく皆な式場に参列していたようだ。慌てて喪服に着替えて階下の式場へ降りていった、すでにセレモニーが始まっていたが、こっそり旧友の傍に滑り込み腰を下ろした。時間にして10分程度も遅れたであろうか、式次第のはじまりのところだったのでほっとした。近親者だけの葬儀と言うことだったので一般の参列者としては私たち6年2組の連中が存在感を示す場となった。
ところで、先程から私たちの一団の方を気にして後ろを振り返る女性がいることに気がついた。実はこの女性のグループが、久保先生が50歳で退職された最後の年に担任された6年8組の後輩たちであることが、後になって分かったのであるが・・。
改めて久保学級というのは私たちだけのクラスではないことを思い知らされたのである。その後、数年たってこの学年と私たちの学年が合同でクラス会を開くことになるのである。
さて、「ツネオ」が弔辞を読みあげ、お棺に臥す先生との最後の別れが来たとき、三女の「なお」さんが先生の穏やかな死顔にすがりつき「お母ちゃん」と叫びながら泣き崩れていた光景を会場のすべての人が見ていたように思う。実家との軋轢の中で葬儀すら知らされなかった彼女にとって、無理を通しても亡き母にお別れを言いたかったに違いない。そのなおさんを会場でずっと支え、慰め励ましていたのが「サトシ」であり、改めて彼の存在感を確認することができたと言えよう。
「家族とは何か」という問は永久に問われ続けなければならない宿命を負っているのかもしれない。いよいよ出棺の時が来た、「カナコ」が大声で「先生ありがとう」と言った。私たちもその声に押されて「先生ありがとう」と何ども叫んだ。しかし、私たちの心に空白が出来ることはなかった。その後のクラス会は三女のなおさんが先生の名代として参加されている。
作品名:久保学級物語(後篇) 作家名:田 ゆう(松本久司)