久保学級物語(後篇)
(5) 久保先生が田辺小学校に着任されたのは昭和28年、41歳の時であった。先生は1年生の担任を希望され、熱意と豊かな経験から異論なく1年生を受け持たれた。田辺小学校では1年生と2年生および5年生と6年生は同じ先生による担任持ち上がり制度が取られていた。3年生と4年生は担任が変わるので、田辺小学校では通常4人の先生から教えを受けることになる。そのうち最も厄介な学年が1年生であり、現場経験が豊富でないと担任が務まらないとまで言われていた。
しかし、新1年生を教室に迎えることは、楽しみであり喜びでもあることは間違いないが、同時に担任の重責を痛感させられる事態もしばしば起こる。この年の1年生50名は比較的おとなしく、物わかりがよさそうな児童が多く見かけられたので、手を焼くことが少ないだろうと思われた。その理由の一端は、まだまだ庶民の生活事情は厳しかったが、幼稚園に通わせる家庭が増え始めた頃で、そこで行儀や躾を身につけてきたのであろうか。しかし、大半の児童は小学校に上がる前に集団生活ができるよう、家庭での躾に委ねられていた。
ところで、50人もの生徒を抱えれば中には手のかかりそうな生徒も出てくる。「トシオ」は「ゴンタ」で腕白であるが「ガキ大将」ではない、ガキ大将は他に2人もいて覇を競い合っていた。そのトシオにいつも寄り添うように、何かにつけ世話を焼いているのが「タケシ」である。
タケシは先生が決めた級長である、彼がトシオの世話をするようになったのは先生から命じられたからにほかならない。また、同時にトシオの傍にいることでガキ大将から生意気だと言って小突かれるのを免れることができた。
一方、トシオは「ラ行」と「ダ行」の発音の区別ができないばかりか、自分の意思を相手にうまく伝えることができない性癖があった。しかし、愚直で言われたことはちゃんと理解できるので知恵遅れと言うわけではなかった。タケシは幼稚園を出たがトシオは幼稚園へは行かしてもらえなかった。
タケシは小柄で聡明であるが、おとなしく軟弱な面が久保先生には不満であった。そこで先生はタケシをトシオに張り付けることにしたのである。彼の父は府立高校の校長で、自慢の息子に違いなかったが将来に何か不安を感じられていたようだ。タケシは先生に命じられた通りトシオをケアする中で自己の意思を強く持つことを学び取ったのかもしれない。その後、彼は現役で京都大学に進学した。
大学1回生の時は授業にもよくでていたが、2回生からはほとんど大学に来なくなった。大阪の某アジトに潜伏するようになり、いつの間にか赤軍派のメンバーになっていたのである。やがて、「よど号」をハイジャックして北朝鮮に亡命することになるが、その間の経緯は定かではない。
タケシは自分たちが引き起こした事件が重大な犯罪行為であることは承知していた。しかし、自分は他人を殺めたり傷つけたりしたことは一度もないことが救いであったし、これまでの日々を後悔することはなかった。
いま、彼は久保先生の言葉を思い出している。「トシオ君の面倒をみてあげなさい、彼を助けられるのはあなたしかいないのよ。そうすれば、あなたも自分の・・・を見つけることができるわ」。
いくら繰り返しても先生の言われた大事な箇所を思い出すことができない。先生は何を見つけることができると言われたのか。俺は本当にそれを見つけ出すことが出来たのだろうか、もう一度先生に会って確認したい。タケシは北朝鮮で日本人妻と慎ましく暮らし、日本に帰ることなく24年にわたる亡命生活を終えたのである。
作品名:久保学級物語(後篇) 作家名:田 ゆう(松本久司)