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田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
novelistID. 51015
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久保学級物語(後篇)

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(2) 二十四の瞳が映画化された昭和26年は、先生39歳で大阪市内の小学校に移られていた。高松市内の小学校に勤務していたころ、遠足や修学旅行で小豆島へ度々行くことがあったので岬の分教場はよく知っていた。その分校での昭和3年の頃の様子を映画化したものであるが、新1年生を担任した大石先生はまさに自分のことのように思われたに相違ない。昭和3年といえば、先生16歳でまだ高松高女の学生であり、実家から見渡せる小豆島の小学校で教鞭をとることを夢みられていた頃の話である。
 先生が年齢的に一番油が乗っていた30歳前後は、逆に教育に熱弁を振るうことができない時代であった。軍律が厳しくなるにつれて先生のような進歩的な考えの持ち主は官憲の取締り対象となり、周囲の目が注がれる中で教育の場に自由な意見を持ち込むことが許されなかった。それまでにも、多くの教え子を戦場にやらねばならなかった不運を嘆き、今また教科書を墨で塗り潰さねばならぬ時代を悲しみ、涙された。その作業を子供たちに命じる自分が情けなかったのである。
 やがて終戦を迎え、いよいよ自分の理想とする教育ができると思っていた矢先、農地改革と家業の失敗により、追われるようにして大阪に移ることになった。大阪にはかつて実家で働いていた職人で、醸造事業に成功していた社長の招きに応じることにしたのである。
 昭和22年、先生35歳ですでに所帯を持ち1男2女を連れて父家族と共に大阪に渡り、自分たち5人家族は狭い借家で戦後の貧しい時代を過ごすことになった。しかし、高松時代からの知人の紹介で職場はすぐに見つかり小学校勤務を再開することができたのは幸運であった。
 戦後の教育は新憲法の下、民主主義を基本理念として行われることになったが、指導内容のあまりの変貌ぶりに戸惑いながらも、これから自分が望む教育ができることを素直に喜んだ。すぐに教育の才を取り戻した先生は、どうすれば実直で優しい子供を育てることができるのか、教育の原点に戻って心を砕かれる日々が続いたのである。先生の教育の原点は常に岬の分教場での大石先生にあったはずである。
 ところで、先生が最後の任地となる田辺小学校へ転勤されたのは昭和28年、41歳のことである。責任感が強く、信望も厚い先生はPTAの会計事務をやりながら1年生を担任された。転校先でも低学年を担当したいという気持ちは変わらなかったのである。
 一方、われわれ久保学級のワルガキはその年には3年生に上がっていたので、田辺小学校での学園生活でいえば先生とは2年間のすれ違いがあったことになる。このため、われわれは1年生で先生の教えを受けることは叶わなかったのである。
 田辺小学校に赴任された頃、先生は小学校にほど近い北田辺に新居を構えられていた。そこで、家族5人が暮らしておられたが、もう少し後になって、われわれ久保学級の一行が先生宅に訪問する度ごとに、二階の床が抜け落ちやしないかと心配させることもあった。そこから、少し足を伸ばせば広大な白鷺公園に通じる閑静な住宅街にあり、わが家同然、通いなれた先生宅が今でも懐かしく思い出される。