久保学級物語(前篇)
7) 久保学級クラス会はこれまでに二人の常任幹事によって運営されてきた。前期は先生っ子のWa君で後期は元祖ひょうきん族のTa君であるがお二人の労に対して心より感謝を申し上げる。Wa君は歯科医で私もTa君も彼に一方ならぬお世話になった方である。
Ta君はアマ作家で「6年2組物語」を始め数々の作品を書き上げ、その都度我々に配布してくれたので面白く読ませて貰ったが、今はネットの上で彼の作品を読むことができる。そのTa君の久保先生の捉え方が実に鋭敏なので紹介したい。
『僕達は、戦後民主主義の申し子みたいな存在である。「戦後民主主義の手ほどき」を久保先生から受け、久保学級のクラスを通して学んでいったように思う。先生は一度だけ、「教え子を戦争にやった」こと。「教科書を塗りつぶさせた事」。自らの辛い体験を、涙を滲ませて話されたことがある。治安維持法という悪法で国民の言論が統制され、戦争への道に進んでいったことも。基本的人権の大切さも語られたと思う。一度だけの迫力というのか、少年、Taの心を捉え、僕に社会への関心の扉を開いてくれたのでした。
それから、先生は成績の出来不出来は関係なく、はっきりものを言うこと、自分の意思を伝える事の重要さを言われました。それもあるのか、班を作ってグループで何かをやることがやたら多かったのです。皆で、共同で何かを調べ、作り発表する。誰かが、何かの役割を担います。あの班に負けるかとそれぞれ工夫を凝らします。』
久保先生の別の一面を伺い知るような記事で、みんなから「社会科」のTaと言われた彼の面目躍如といった感があるが、ほとんど真剣に授業を聞いていなかった私には新しい発見と言えそうだ。事実、将来に繋がる教育が先生のもとで行われことは私たちも認める共通点である。(Ta君のペンネームは多村ジュンである)
多村ジュン:http://novelist.jp/member.php?id=32884
8) 一方、先生は私たちをどのように見ておられたのであろうか。個人的には手紙の形で気遣われることが多かったが私のところにも十数通の封書が残っている。また、先に述べた加野厚志君の小説に至ってはすべて先生からの贈り物として読ませて戴いた。小説が発刊されるとたくさん買い込んで生徒たちに配られたのであるが、同時に加野君を応援されていたことが伺える。
先生が書かれた手記のようなものがないので直接には先生の意思を知ることができないが、三女のNaさんが母を回顧されている手記があるので一部分であるがその箇所を引用したい。そこには私たちが想像した世界とは違う世界が展開されており事実を直視すればわだかまりのあった諸君らも先生の人柄に触れることができるだろう。
《娘から見た母は、負けん気の強い、前向き、好奇心旺盛、弱音を吐かない、自尊心の強い人でした。私が知る限り仕事人間の母。家でも仕事している母の姿が、物心ついた時から、私の目に写っていました。母はPTAの会計を長年担当、そのため、殆ど低学年を担任。家庭の事情で退職を考えていた母は、退職前に「高学年を持ちたい」と希望して、皆さんと出会ったのです。母も念願の高学年担任。楽しそうに話してくれました。
悲しい出来事も。母も辛かったと。突然の考えもしない事故、皆さんもクラスメイトの死をどう受け止めてよいか、つらかったですネ。あの時、母は二日間帰宅せず、家には、報道関係が詰めかけて・・。電話で母の指示を受けた.葬儀を終えて帰宅した時、母が「大変やったなあ、疲れたやろ」と声をかけてくれて、緊張がとけたかへたり込んで泣いていました》
後半の悲しい出来事は旧友が不慮の事故でなくなったことを指している。クラス中があわてふためき悲しみに包まれたことが思い出される。浜寺水練学校で一万米を遠泳できる水泳の達人だった。この他に夭折された旧友の訃報に接してこられた先生の悲しみはいかばかりであったろうか、それらを乗り越えて平成17年に長寿を全うして他界されたのである。
作品名:久保学級物語(前篇) 作家名:田 ゆう(松本久司)