星よりも儚い 神末家綺談1
「言っただろう、夏はその境目が曖昧になるんだ。溶け出した境目が交じり合い、見えないものが見えてしまう。知らない世界へ踏み入ってしまう」
だから気をつけたほうがいい、と瑞は結んだ。ねちねちと嫌味なお説教が続くと思っていた伊吹だったが、瑞はそれきり言葉を切った。
虫の鳴き声が戻ってくる。蒸し暑い夜気の中に、道脇の田んぼの青い稲の匂いがまじった。
ここが自分の場所なのだ。帰ってこられた、そう思うと安堵から身体から力が抜ける。
瑞の背中に自分を預け、伊吹は目を閉じた。ふわふわと柔らかな髪がくすぐったい。
「おかえり」
石段を上って神社に辿りつくと、月明かりの下に穂積が立っていた。紺の浴衣姿で、柔らかく笑っている。瑞は唇を突き出し、背中の伊吹を揺すって見せた。
「ねー何なのこの子。夜遊びした挙句、ひとの背中でグースカ寝てンだけど」
「ご苦労さん」
困った子どもだ。目が離せない。瑞が毒づくと、穂積は嬉しそうに笑うのだった。
「危機感ゼロ。おまえの跡目がこんなでいいのか」
「いいんだ」
穂積が静かに答える。すべてを許す優しい目に、瑞は魅入る。
「わたしが死んだらこの子が跡を継ぐ。この子に残されている自由はわずかなんだ。好きなことをたくさんさせてあげたい」
穂積の妹であり伊吹の祖母でもある佐里は、お役目を継ぐ男児を生むことができなかった。そのため穂積の代と伊吹の代の間に空白が存在しているのだ。伊吹は歴代のどのお役目よりも早く、当主となることを義務づけられている。
「意味があるのかもしれんな」
のんきに眠る伊吹を布団に寝かせていると、背後から穂積が囁くようにいった。
「うん?なに?」
「伊吹がわたしのあとに役目を継ぐことに」
ふん、と瑞は開け放たれた縁側であぐらをかく。夜風にひとつ、吊り下げてある風鈴が鳴る。
「意味などあるものか。偶々だよ。誰が跡目になろうが何も変わらんじゃないか」
「わからんよ」
隣に腰を下ろして、穂積が笑う。まるで、その意味を知っているとでも言わんばかりの含み笑い。食えない男だと瑞は思う。食えない男で、そして自分はこの男には勝てないのだと知っている。
「くそじじいめ」
嫌味をとばして視線を天へと移す。満天の星空が広がっていた。
失われた過去から届く儚い光。どんなに手を伸ばしても、届くことは叶わない。
「儚いな」
いまはもうないものに、触れることはできないのだから。
「いつかおまえも、そうなるのか」
穂積の横顔に問うてみる。
いつか遠くへ行ってしまい、もう二度と触れられない場所へ行ってしまうのか。
穂積という光が失われてしまえば、長い長い時間の流れを生きる瑞は、その時間の中でいつか穂積を忘れるだろう。歴代のお役目を忘れてきたように。
それは星よりも儚い。
「いつかはな。だが、いまではないよ」
いつかくる、いま。
一年後なのか二年後なのか。この夏の夜空を、あと幾度一緒に。
夏が音もなくゆっくりと過ぎていくのを、二人はだまって見上げている。
「いつか」が来ることなど、想像もできないくらい美しい星空を。
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作品名:星よりも儚い 神末家綺談1 作家名:ひなた眞白