やくそくと星空
しばらくして、家の最寄りのバス停へバスがさしかかった。その頃にはすでに日も暮れてあたりは、街灯たまにすれ違う車のヘッドライト。とまばらな住宅の窓から漏れる明かり程度になっていた。家は、少しだけ山を登らなければならない。バスのフロントガラスからのぞく風景は、ゆう姉がこの街を去る前と変わらぬ、山林を映し出していた。
その光景をどんな表情で眺めているのか、と気になった少年はゆう姉の方を振り向いた。
ゆう姉は、どこか感情の欠けた表情のまま前を見つめている。どこか、遠いまなざしだ。唐突に、少年はゆう姉が大学生なのだと実感した。
そのまま、無表情にぽつりとゆう姉はつぶやいた。こちらがみていることに気がつかれたのかもしれない、と少年はすこしびくっと体を震わせた。だが、次の瞬間にはそんな些細なことは気にならなくなった。
「ゆう姉ね、結婚するんだ」
対向車線を、トラックが轟音とともに通り過ぎていった。
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▼ ――扇風機に、甘い香りが混ざる
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うつらうつらとしながら、何のにおいだろうと少年は思う。記憶の中、あてはまるのはゆう姉のつけている香水だ。寝ぼけた瞳を扇風機へ向けると、果たして、そこにゆう姉が惚けていた。
あ、の形に大きく口を開いて扇風機へ声を出している。ビブラートのかかった、変な音が部屋の中に響き渡っている。その子供じみた様子を眺めてから、少年はまた瞳をつむった。時刻は昼頃。窓の開けはなたれた縁側で寝ころび、午睡を楽しんでいたときのことだった。
瞳をつむってまた、眠りに入ろうとしていたところ、少年の耳に一つの音律がすっと入り込んできた。
――fly me to the...
有名なジャズの曲だ。少年もフレーズだけは耳にしたことがあった。透明な歌声が、扇風機の音に混じって耳に届く。
星々の間で歌わせて、と曲は続く。手をつないで、キスをしてほしいと。
少年の頭の中で、先日、ゆう姉に告げられた言葉がよみがえった。結婚するんだと、バスの中で告げられたが、はたして、ゆう姉はこの歌の歌詞のような言葉をその相手へ寄せたのだろうかと。
だとするなら、果たして、どうだというのだろうか。益体のないことだ、と少年は思う。そして、本当にどうしようもないことだと、理由もなく憂鬱になった。
歌声はまだ続いている。
あなただけは、あなただけはと歌うゆう姉。
やがて、歌は愛していると告げて途切れた。室内に、扇風機と、とおくの蝉時雨が聞こえていた。
さやかな風が入り込んでくる。
その風の心地よさに、眠りかけていた少年の意識が薄れていった。眠りに誘われていく。
――fly me to the...
「また、歌うのかよ!」
「えー……だめかな?」
また歌い出そうとしてゆう姉に、少年は、思わずつっこんだ。
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◆ ――天体観測にいきましょう
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八月も終わりにさしかかったうだるように暑い日のことだった。
縁側で窓を開けはなち、入ってくるさやかな風に涼んでいたときのこと、ゆう姉は、少年に向かって唐突にそう告げた。
「ね、天体観測にいきましょう。あの、昔のぼった高台でさ」
繰り返し告げるゆう姉に、少年はけだるげに体を起こしつつ振り向くと、そこには、どこか茶目っけを感じるような、小さなほほえみがあった。
昔のぼった高台、というのを少年は思い出す。記憶の中、確かにのぼったことのある高台は、ここからゆうに、自転車でも一時間はかかる位置にある。そもそも、街の端と端といってもいいような位置関係だ。
「え、めんどい」
「や、そこをなんとか、なんとかぁ!」
だから、思わず少年はいろいろと熟慮する前に、まっさきに思い浮かんだ感情を口端に乗せてしまったのだが、ゆう姉もさるもの、今度は、どこか新興宗教を彷彿とさせる土下座で少年に懇願してきた。
「おねがいしますだーお代官様ー!」
「誰がお代官だ、誰が」
そんな様子のゆう姉をあしらいつつ、天体観測か、と少年は口の中でつぶやく。
天体観測……前にしたのはいつのことだったろうか。少なくとも、ゆう姉が大学に行く前のことだから、四年以上は昔ということになる。昔は、よくよくゆう姉にらち同然につれられ、暗闇の林道を歩かされたものだった。少年は今でもそのことを根に持っている。当然のことながら、子供心に街灯しかない森の中を連れ回されるというのは恐ろしいものだ。ましてや、天体観測をしていたのは夏頃が大半である。テレビにかぎらず、学校だろうがなんだろうが怪談であふれている時期だ。地元の有名な幽霊スポットが最寄りにあるため、少年の心にはなおのこと、深いトラウマが刻み込まれていた。
「やっぱいやだ」
「そんなぁー」
だばーと溶けるように、床に身を投げるゆう姉。仰向けに、天井を見上げる。
「だいたい、なんでそんな、急に」
いやさ、と前置きをおいてからゆう姉は告げた。
「なんとなく、戻る前に行っておきたかったんだ、あの場所に」
思いの外、真剣な声音だった。悪戯っけのこもってないゆう姉の本心の声が唐突に聞こえてきたことに、少年はとまどった。
「そ、それなら」
そんなことなら別に、と少年が続けようとしたところだった。
「いや、うん。別に、いけないならいいんだ。うん。いやなら別にいいよー」
と、ゆう姉がその言葉を遮った。声音にはもう、さっきの真剣さは宿ってなかった。肩すかしを食らったように、どこか拍子抜けした感覚を少年は覚えた。だが、同時にどこか釈然としない心地も、少年は覚えていた。
「うん、別にいいんだ」
繰り返し告げるゆう姉のその言葉に、少年は、どこか漠然とした考えを巡らせ始めていた。
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◆ ――思い出の高台で待つ
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と、手紙には記されていた。
テーブルの上に置き去りにされたなんの変哲もない紙切れ。新聞紙に挟まっていたちらしの裏がわ。そこに、どこか丸っこい愛嬌のある字で用件は端的に記されていた。
その言葉を見て、迷わずに自転車に飛び乗り、町中を少年は疾駆した。普段は一時間以上かかる道のりを、その日は四十分ほどで走りきり、遊歩道の始まりで自転車を降りた。