みちくさ(後編)
3) 太陽光発電の賛否を問う
わが家は昨年車庫の屋根にソーラーパネルを設置し発電を開始してから1年が過ぎた。当初電圧の関係で売電ができず中電とモメたことがあったがそれも無事解決したかのように見えた。しかし今なお電力会社に対しては懐疑的だ。福島原発における東電の対応をみればなおさらそういうことになろう。
一方でパネルの構造自体にも問題が大いにあるのだがメーカーは改善をしようとしない。電力会社と結託しているとしか思えない事態がそこにある。夏場のカンカン照りの天気の下では発電効率は極端に低くなる。メーカーの技術力をもってすればこの問題を解決するのは容易なはずだがやらない。また、発電量がピークに達するやいなや抑制がかかり見ているうちに発電量が低下していく。売電量を少しでも減らさせようとする電力会社からメーカーへの圧力がかかっているのではないか。
もっと穿った見方をすれば原発稼働を再開推進させるためには太陽光発電は極力抑えたいはずである。売電単価と買電単価の差額は結局のところ電力料金に上乗せされる。電力会社にとってはこれほど厄介なものはない。家庭における猫の額ほどの屋根に設置されたソーラーはまだしも、メガソーラーとか言ってテープカットまでして喜んでいる連中などは許しがたいはずである。例えて言えば、掘り抜き井戸に対して各地にダムを作るようなメガソーラーの設置は私にとっても不愉快極まりない行動である。(平地に設置されたパネル群は将来景観上の問題を浮上させることになるので土地利用面から規制する必要があるだろう)
4) 田畑転換の賭け
この春思い切って田んぼを畑に転換した。水稲栽培はこの地に転居してから14年間続けてきたが、しだいに米作りの興味は薄れ最近は惰性で続けていた。飯米農家は市場で一番高い米を食っていると言われてきたが安全でうまい米を食っているという自負もあるらしい。
田んぼに這いつくばって草を引いているとき、自然と一体になっているという妙な快感を味わったこともあったが、何日も続くと除草剤を撒いたほうが楽でいいと思うようになる。米作りは都会人には味わえない贅沢だと意気込んだこともあったがこれは百姓のルサンチマンに過ぎない。
いよいよ米作りをやめて畑作りに専念しようと思うようになって田畑転換に踏み切った。畑に変換した場合何を栽培するかはすでに決めていた。ドーフィン種のいちじく栽培であるが、特別な理由があるわけでもなく以前に居住していた周辺の農地で水稲転換作物のいちじくを目にした記憶が鮮明だったからかもしれない。
排水をよくするため暗渠排水溝を設置する必要があり、また幅広の畝や通作道を交互に儲けるためには人力作業では無理だと考え土建会社に工事を依頼した。耕地として利用できるようにするためにはかなりの手直しが必要になったが、今ではいちじくの枝が畝の線上に伸長するまでの期間、スイカやメロンなどを間植して楽しんでいるが米作りの当初に感じられた共生の世界観を得るには未だ至っていない。
作品名:みちくさ(後編) 作家名:田 ゆう(松本久司)