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Twinkle Tremble Tinseltown 10

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night call


「愛してる」
「そんなこと言うのはやめて、ラニー。私はもう、あなたを許すことができない」
 頑なにならずに、という言葉は、舌の上で皮膜を作ったアルコールに触れる端から溶けていく。懇願の権利など、とうの昔に剥奪されていた。
 職場から帰宅した午前1時、彼女が電話を取っただけでも奇跡だというのに。しっかりとした口振りから判断して、彼女も眠っていたわけではないようだった。ハスキーな声でぶたれるたび震える鼓膜に、心が連動する。だから調子に乗って訴え、提示し、糾弾してしまった。
 挙げ句に突きつけられた拒絶は、当然の成り行きだと日中ならばすげなく切り捨ててしまえただろう。けれど仕事が終わり、誰もいない自宅へ足を踏み入れると、潜んでいた寂寥が顔を出す。膨れ上がって身を押し潰す。
 昼間示した無関心のつけは、夜に返ってくる。どれだけの馬鹿をムショへぶち込むことができたとしても、このことに関してだけは何度痛い目に遭ったところで学ぶことができない。

 積み上げられた失敗が崩れ落ちた上に、新たな失敗を重ねていく生活を、ビフは手をこまねいて眺めていた。選択権は自らにあるにも関わらず。


 デスクワークに上乗せされた30分間の会話。腰が鈍く疼き、ソファの中で身を蠢かす。青い闇の中、唯一くっきりと存在を主張する電話本体の光から目を逸らすことができない。

 不規則な点滅はもどかしさを加速させ、脳を冴えさせながら同時に疲弊もさせる。取り残されたのは苛立ちだけ。聡い彼女はとっくの昔に気づいているだろう。まだ吐息に残っている後悔と嘆きを聞かせるよう、ビフは受話器を唇へと近づけた。
「ジェーンは?」
「元気にしてるわ。学校は楽しいって」
「久しぶりに会いたい」
 戻ってくる沈黙を跳ね返せたならばどれほど楽だろう。だがビフはその職業と裏腹に、私生活では恐ろしいほど未練がましかった。
 楽観的なイマジネーションは余りにも柔らかく、悲観的な現実はあまりにも堅い。ぶつかって壊れることが分かっている今はまだましな方だった。聳える壁を見上げ、唸り歯噛みしていれば良いのだから。

「とにかく」
 通わせる沈黙に侵されるのが耐えきれなくたった頃、ビフは篭もったような声で言った。
「今度会いに行く」
「ええ」
 強固すぎ、抑揚もろくに感じ取れない声音で、元妻はそれだけ答えた。



 受話器を置き、緩んだネクタイを引き抜く。壁の時計を見遣ると2時前。予定ではもう少し喋るつもりだったが、調子に乗りすぎたせいで延長は認められなかった。

 ガラステーブルに乗ったジャックダニエルズの瓶は下半分が魅力的な飴色で、上半分はむやみやたらと輝くだけ。これを週に一本のペースで空けているのと、寝不足が続いているせいで、近頃は顔のむくみがなかなか取れなかった。

 いい加減節制するべきだ。もう42歳。もう離婚して4年。妻子と住んでいた頃なら絶対にしない動作、つまりガラスの天板に乗せた足で瓶を追いやる。グラスに注ぐのはもう止めよう。翻意を促すよう、だらりと傾けられたガラスの縁から滴が垂れて指を濡らす。

 住宅街から遠く離れた車道の騒音はざらついた形に姿を変え、こじんまりした地所の狭間を満たすだけには飽きたらないと見える。広いリビングルームにまで浸食し、ブラインドが薄切りにした光に乗じ床の上で踊っている。止めろと叫ぶ気力も既にない。
 東芝のプラズマテレビと付随するサウンドシステム、モルテーニのソファ。体面と物欲に逸る家族の心を保証してくれたものは、木馬に乗り込まれたトロイアの城壁程度の役にも立たない。
 養育費以外のものはいらないと断言し、自らが選んだ調度品の全てを置いて家を出た妻を最初はいぶかったものだが、それが夫を長期にわたり苛むという作戦ならば、ものの見事に成功している。家具は皆、彼女の方を向いて尻尾を振っていた。他人の物にしか感じない部屋で何をしようと、預かり知るところではない。

 二重顎を喉元に押しつけ、ビフはいつもの晩と何ら変わらない茫洋とした瞳を電話機へ向けていた。既にディスプレイすら光を失った機械は、その場で堅実に存在感を示している。苛立ちを募らせる物として。

 嘆きとむかつきの波は交互に心を襲い、その表面を削っていく。折り返しという言葉が、少なくとも今夜は見込めないのだという事実を、彼はようやく悟った。今気づくことができてよかった。ふつふつと沸き上がる怒りは心を固く煮しめ、「もしも」という言葉へ無意味な罵倒や自尊心、何よりも期待をかけてしまうに違いない。
 もっとも例えどれだけ感情をぶつけられようとも、妻はこれ以上夫との間に広がる溝を深めようとはしないだろう。彼女は知っている。今のままでも十分、夫が伸ばす手は自らに届かないのだと。これ以上無駄な労力を使う手間など、彼女は掛けない。
 そのクールな姿を愛したのだ。それは今も変わらない。怒りがほんの少し上回ってしまっただけのこと。



 あなたが裏切ったの、と彼女は訴えた。仕事にかまけすぎたのだと言う。彼女にとっての脅威になっているのだと言う。だが娘が情緒不安定になるほど忙しいのはお互い様だったし、先に努力を放棄したのは彼女自身だった。
 あなたは私ばかり責める、自分の非を認めない。彼の答弁は、彼女にそう映ったらしい。その言葉をそっくりそのまま返してやりたい。
 最終論告でそう言ったから、彼女は娘を連れて家を出た。彼女が彼の目で世界を見ることは遂になかった。隣にいたのは確かなのに。


 開きっぱなしの眼は瞬きすら億劫で、瞼を動かす度に眼孔全体が重く痛んだ。早く寝て明日に備えなければ。抱えた事件は3つ。不幸中の幸いというか、憂鬱を軽減するのは、どれも少し関係者を揺さぶれば、簡単にホシのことを暴露しそうだった。

 世の中には救いようのないことが多すぎる。具体例を挙げるなら二日前取調室で泣きじゃくっていたヤク中の女。汚い部屋に隠してあったのは「うっかり」転んで命を失った3歳児と、これから先トラウマで人生を棒に振る可能性が高い5歳児。
 お前さえ生まれてこなければ、こんな悲しみや苦しみがそもそも存在することなどなかったのに。罪を棚上げし罰ばかり恐れる売女にそう言い放ちたい衝動に苛まれて胸が爆発しそうになる。
 だが命ある限り、人は生きる努力をしなければならない。そのための選択肢を他人に委ねる羽目になったとしても。


 力の篭もらない手から抜け落ちたグラスが、堅い音を立てて床に到達する。割れることなく転がったそれは指先が届くか届かないかの場所で待っている。目玉を蠢かすよりも首を捻る方が楽だった。ガラスは命じる。動けと。

 汚れた食器を拾い上げることすら面倒なのに、闇をびりびりと破る着信音へは体全体を使って飛びかかることができる。
 耳に押し当てた受話器の向こうから聞こえてきたのは、当たり前だが耳慣れた女の声ではない。少し嗄れた甲高い声へ被せるよう、まず咳が幾らか。
「起きてるかい」
「ああ」
 つい数時間前まで耳にしていた相棒の声は鼓膜へ絡みつく。しょぼついた目を一層しかめ、背もたれの傾斜に従ってずるずると落ちる。
「今度は何だ」