みちくさ(前編)
(5) 売れない本 「ブログ炎上は無縁」
ブログ書き込み再開である。まったく売れない本同様、これまでの記事に対してなんの反響もない。記事がつまらない、関心がない、どうでもいいことだと言われればそうかもしれない。反響がひどすぎて炎上することもないが相手にされないのもちとさみしい。ならば書き直しするしかないが、ネタをごろりと変えるわけにはいかない。このブログにもある意味で主張や目的があるからだ。
田園のゆううつは今もなお続いている。大げさに言えばその原因を追求して少しでも快癒できればそれに越したことはない。とは言っても自己満足で終わってはダメなことはわかっている。世のため人のためと気負って上段に構えるつもりはないが、何とかしたい、地域に貢献したい気持ちはある。
ブログなんかでぐちゃぐちゃ書くのをやめてボランティアでもやったらと言われるかもしれないが、ボランティアの本質、その一過性や限界を知っているだけにやる気はしない。しばらくはブログを通して田園のゆううつを語り続けるのがいいのかもしれない。
(6) 中国人留学生のつぶやき
私の講義の履修生の中に意外だなと思わせた中国人留学生がいた。何が意外かというと自国の国民感情を悪しき様に批判する留学生はこれまでお目にかかったことがなかったからである。いや、批判する者はいたかもしれないが彼女の批判論理がなかなかおもしろかったから特に取り上げたのかもしれない。
「今の中国人には儒教の教えがすっかり失われている」から始まり国民の間にルール不在の風潮が見られるらしい。そして、人が二人集まればそこにルールが必要になるという。そのルールは孔子の教えにあって「己の欲せざることを他人に施すことなかれ」であるという。これは聖書のなかでも見られる金言であると言える。
儒教の教えと共産党の思想とは本来相容れないものである。かつては文化大革命の中で抹殺される運命を辿ったが、儒教の精神が必要だと指摘した彼女は共産党や官僚らの目に余る拝金主義や愛人問題に及ぶテイタラクを予見していたのかもしれない。これから中国人民のルール不在の感情はどのような方向に進むのだろうか。
(7) 大学側の論理まかり通る
平成25年のこの春大学を解雇された。非常勤講師であったが定年に達したので、ということらしい。定年には一応の年齢基準があるにはあるが何もそれに準拠する必要はない。少しでも有名になればいくらでも長生きしている教員だっている。かなりの高齢であるにもかかわらず。だから解雇するかどうかは大学の論理で決まるようだ。
非常勤講師の年俸は専任教員の数%程度である。だから解雇しなくても大学側は損をするようなことはない。それにも拘らず存在価値のない教員はもちろんのこと、そうでない場合でも講義がマンネリ化し学生に不満が生ずるのを恐れて解雇に踏み切る。私の場合、誰かが教授会に定年解雇を進言したことによっているらしい。
大学や学部の設置は大学審議会がこれを決定する。その際は専任教員の絶対数が審査され大学側も当初はその数を確保する。審査完了後の運営は大学側の勝手気ままがまかり通る。専任教員が欠如しても補充することを渋り、非常勤講師でカバーしようとする経営原理が働く。
私は教授を10年間勤めたあと自己都合でやめた。その後は非常勤講師として長く働かせてもらったので大学にケチをつけるようなことは避けるべきだろう。だからこの記事は一般論として読んでもらえればありがたい。講義を受け持って一番嬉しかったことは毎年優秀な学生に巡り合えたことに尽きるかもしれない。
作品名:みちくさ(前編) 作家名:田 ゆう(松本久司)