小百姓の論理
(13) いちじくがさび病に冒されてあたかも苦しんでいるかのような表現をしたがこれは私の頭の中だけの推測でしかなく、決して自然と一体となったが故に生じたいちじくに対する感傷ではない。自然の摂理を認識することは頭で理解するのではなく自然と一体となったとき初めて獲得されるものであると信ずる。田んぼの中へ足を突っ込んで草を引きながらいつまで経っても自然と一体化できないでいた自己を顧みるとき自然の摂理などはとうてい認識できないであろうと諦めていた。
ところがひょんなことから自然と一体になるのはどういうことかを知るようになったが、それは実に素朴なことでもあった。知るきっかけとなったのが中日合作映画「スピリット」のシーンで中国内陸部山間に住む農民が棚田で田植えをしている一コマにその答えがあった。
その一コマを思い出してみると、田植えに励んでいる最中に一瞬の涼風が吹き込んでくると共同作業をしている全員が手を休めて胸一杯にその空気を吸い込みリフレッシュした後で再び作業に取り組むというシーンであったが、その中でただ一人だけ黙々と作業を続ける主人公がいた。彼はこの土地にたどり着いて初めて田植え作業を手伝うことになったが皆に遅れまいと植付け作業を急ぐあまり彼の植えたところだけひどく乱れてしまう。
あとから他人の手を借りて植え直しをすることになるが、このシーンは現地の農民との対比を通して自然との一体化の重要性を暗示しているように思えた。年月を経て彼も皆と同じように風が入ってくれば背筋を伸ばしてゆっくりと一息入れるように変わっていくシーンがそのことを物語っている。
自然との一体化はどうやら哲学など頭で理解すべきものではなくむしろ習慣や伝統の中にあるものではないのか。すでに体得されたことの中に存在しているとすればただ気付かないだけであってむつかしく考えることではないように思われる。
(14) 映画「スピリット」の中で主人公が農民との共同作業を通して自然と一体化することができたというシナリオはその後の彼の武道家としての生き方に反映されることになる。ここで留意すべきことはどうして自然との一体化を体得できたかという点である。(独り言・・それにしても今朝はクロバネキノコバエの多いこと、落ちつて書き込みができない、早く原因を解明して有効な対策を打って欲しいものだ)
彼は瀕死の状態から偶然にも盲目の娘に助けられ田舎暮らしをすることになるが、その娘から苗の植え方を教わることからやがて体得するに至る。彼が初めて植えた苗のあまりにも不揃いなのを娘自身が手直しするために田んぼに入るがそれを見ていた彼もまた一緒になって植え直しを手伝う中で娘から稲の生育条件を聞かされる。
注意すべき点は彼の植えた苗が不揃いであったことを盲目の娘がどうして気づいたかである。ここに障害者と健常者の誤差を読み取ことができる。この村に住む農民たちは習慣として自然との共生を体得している。彼らが一斉に手を休めるときそこにひと時の静寂が訪れるが一人だけ作業を続けていれば娘はそのことに気づくはずである。娘は彼に直接的にはそのことを伝えなかったであろうが稲の生育過程を知るうちに、やがて彼の知るところとなったのである。
タイトルの「スピリット」はこの映画のクライマックスのシーンに当てはまると考えるのが一般的だが、この映画全体に流れるテーマでもあり私はむしろ彼が盲目の娘と過ごした田舎での一時期の体験にその精神を読み取りたいと考えている。
作品名:小百姓の論理 作家名:田 ゆう(松本久司)