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田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
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小百姓の論理

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(7) いちじくの苗木を購入した相手先は三重県に本社をもつチェーン店を展開するN屋である。インターネットで注文する際その通信欄に30本購入するので数本余分に入れてくれるように頼んだ。その件に関してはもちろんナシのツブテで無視された。苗木には100%の自信があることを暗に物語っている。
ところが案の定2本が枯死した。たとえ提訴したとしても栽培管理上の問題で当社には関わりのないこととして一蹴されそうである。我流の遺伝法則を持ち出して苗木に過失があると提訴の理由を説明しても敗訴は間違いない。私の場合は明らかにメンデル法則の誤読であり、そのアナロジー(類推)は根拠薄弱であるという判決が出て裁判は終わってしまう。
N屋は強いと感心などしている場合ではない。わたしはもう一つの誤読を持ち出して抵抗を続ける。なんせ誤読は創造に連なるからである。誤読の相手はフッサールで彼の現象学のアナロジーを持ち出すことにする。「2本の苗木が枯死したのは厳然たる事実である。この現象をしっかり見届けその原因を分析するならば苗木に問題があったと言わざるを得ない。なぜならば全く同じ栽培条件下で残りの28本は生育を続けているではないか」と。
これに対してN屋からどのような答えが返ってくるか大体想像できるが補償には決して応じないであろう。しかし裁判長は以下のような判決を下すに違いない。「N屋は予備として30本に1本ぐらい余分に梱包するように」と。

(8) いちじくの木で発育正常と発育未熟の差は歴然としていると書いた。歴然とはどういう状態を言っているのか。発芽後3ヵ月で比べてみると生育正常の木では一文字仕立の主枝が片側へ1mずつ伸び両側で2mの幅を持つ大きさまでに育っている。それに対して発育未熟の木では根元から数本の枝がいずれも10?20cm程度しか伸びておらず一文字仕立に仕上げるにはまだまだ先が長いように思われる。
それに加えて発育未熟の木は枝が出てからの成長が遅々として進まず発育正常の木との差はだんだん大きくなくなっている。懸命に生きようとしてやっとの思いで発芽したもののその後の成長が日進月歩の発育正常の木との間に大きな溝を開けられた状況に置かれている。私の関心事は発育未熟の木を一日も早く一文字仕立に仕上げたいと願うがそれがいつごろになるのか、秋なのかあるいは年を越すのか生育過程をじっくり見守ることである。
以前に書いたようにいちじくの生育過程を通して人間の生育過程を、近年では個性と言われている健常者と障害者の性質の違い、私はこの差を単なる誤差として扱おうとしているが、いちじくの木における発育正常と発育未熟の生育過程のアナロジーから解明できないかと考えている。
連日の炎天下大きな葉をつけたいちじくは光合成を続けなければ呼吸作用によって得られるエネルギーを生み出すことができないため十分な水を必要としている。しかし昼間は水の消費をできるだけ少なくしようと葉は萎れたように垂れ下がりそれによって蒸散を極力抑え込もうとしている。この姿こそ自然の摂理であり人間の生き様もこれとなんら変わるところはないはずなのだが。

(9) 「大きくなったらサッカー選手になりたいで〜す」保育園の卒園式に呼ばれて園児の将来の夢を聞いているとわずか十数名ほどの卒園児のうち数名はサッカー選手になりたいと親の居並ぶ前で恥ずかしそうに発表するのがここ数年の傾向のように思える。これは何も男児ばかりでなく、なでしこジャパンの活躍もあって女児の夢も含まれる。それはそれで微笑ましく頑張ってという気持ちになる。
しかし全くと言っていいほど園児が口にしない夢や職掌がある、それが百姓である。有線放送で園児の夢を流していた時代から今日の卒園式まで「大きくなったらお百姓さんになりたいで〜す」などは聞いたことも見たこともない。それはなぜか、農業の意義や真の魅力を分かっていないと言えばそれまでだが、それよりも「百姓では食っていけない」などと口癖のように言っている親の背中を見て育った子供には親の意に反してまで百姓になりたいなどと言えるはずもない。また現実として子供に農業を継がせたいと思うほど稼いでいる親もいない状況下では子供に農業を勧めるわけにもいかないのである。こうしたジリ貧農業が子供の夢から百姓希望を奪い取ってしまったと言える。
ところが将来何が起こるかわからないし、えてして人間は夢とは逆の方向に進むのが常である。大阪の都会で育った私は人生の半ばまで百姓の「ひ」の字も考えたことがなかったが、ある時人生の行き詰まりから百姓天国の仲間入りをし、すごい百姓らに出会った。「明るいうちは鍬を夜にはペンを」をスローガンに食えるだけの百姓ではダメで人を幸せにし、国を豊かにする農業を現に展開していた。人間の目指す道は常にいくつにも分岐しているがずっと先の方を見るとひとつに合流しているように思える。園児にとっていまは見えなくても百姓になる夢もまた現実のものとなりえるのである。