日根むら覚書
4) 「日根むら」をテーマにあれこれ紹介しているがそれには当然わけがある。日根が村だった頃をただ懐かしく回顧しょうとしているだけではない。もちろん、当時のむらが今より経済的に豊かであったとは思えないが、それゆえに村民が不幸だったかどうかは別問題である。たぶん、忍耐強く暮らしていたのではないかと想像するだけで確信はないし、そうではなかったかもしれない。
一方、現実に目を移すとこのまま少子高齢化が進行すればやがて集落は機能維持ができず衰退せざるを得ないことは明らかである。だから、あれこれ考えなければならないところが出てくるわけで、たとえ当時の村民が辛酸を舐めながらも「むら」の自主独立のために村としての団結を懸命に維持してきたとすれば、そこから学ぶべきことがあるはずだと信ずるからである。しかし、当時の状況がよく分からないがゆえにひとつの仮説として、むらの自立が成立した根拠がむらの掟である制裁の論理、すなわち村八分にあったのではないかと考えている。
日根村、中之保村、武儀村、武儀町、関市と合併に合併を繰り返すうちに末端組織としての日根村は上意下達により自主独立の精神を喪失してきた歴史が浮かび上がる。もう一度この過程を見直し、末端集落こそ自治の中心であるべきだとの主旨のもとで「日根むら」と銘を打って書き込みを始めたのである。
そこで、理論的な考察は別項に譲ることにして、ここでは主に当時の日根村の様子を明らかにすることに重点を置き、そのためには当時の暮らしが今なお伝わっていると考えられる伝統行事や慣習に焦点を当てそれらの解析から村の自治がどのように維持展開されてきたのかを考察してみたいと思う。
ただし、この手法は文献等に基づいて当時の生活を解明する正攻法、学問的には歴史学や考古学によるものではなく、現在に至るまで存続している事象から当時を考察しようとする類推法、学問的には民俗学や考現学の援用によるもので必ずしも的確な結論に至るものではないことは承知している。しかし、アナロジーの限界が見えている中であえてこの手法を採用することにより、逆に創造的結果を生み出すかもしれないという「誤読は創造に連なる」という言葉を励みに進める以外に方法が見つからないのである。
5) この村は昔から「ひね」と呼ばれているがそこにはどういう意味が込められているのだろうか。今回は地名について考察したい。上・中・下之保のように由来の明らかな地名がある中で今となっては説明できないような地名があるが、元々何らかの意味を持って名付けられたことは疑いようもない。中之保六か村のうちでも多々羅や間吹はその典型で現在の状況からは当時の村の様子を想起することができないがかつては製鉄・製銅の鍛錬が盛んであったことが偲ばれる。
ひねは日根や比根と漢字表記されているが漢字には意味がなく当て字に過ぎない。それではひねにどんな意味があるのだろうか。もちろん地名として使われている限りその土地の特徴が織り込められていると見なければならない。ひねと呼ばれるからにはその語原から「ひね」「ひねくる」「ひねもす」「ひねり」「ひねる」などいくつか候補をあげることができる。しかし、ここでは別の言葉が訛ってひねに転化したような場合を除くことにしたが、こういうケースもあるので地名の由来を尋ねる作業は容易ではない。
①「ひね」はそのまま使われたケースであるが、二つの意味がある。一つは古きもの、二つは早稲に対する晩稲を意味する。②「ひねくる」は手でいじり回したり、理屈をこねまわして相手を閉口させることを言う。③「ひねもす」は一日中の意味。④「ひねり」はおひねりや相撲の手のひとつを指す場合がある。⑤「ひねる」は一風変わったことをするとか考え出すと言った意味をもつ。
この中から当時のひね村を想起させるものがあるのだろうか、現況から推察するならば①の「古きもの」が考えられるが大胆に発想するならば⑤の「一風変わったことをする・洒落たことをする、あるいは考え出す・考案する」むらとして捉えることもあながち空論だとは言えないように思う。しかし、現在の日根からは⑤のような風潮がほとんど見られない限り①の古きものを踏襲してきたむらとして捉えるのが妥当な線かもしれない。だからと言ってこれがひねの地名由来だと断定するつもりはないし、断定するにはかなりの無理があるように思われる。
6) 武儀町が関市に合併(平成17年)されてすでに8年が経過する。合併にあたっては私自身苦い思い出があり、思い出したくもないが合併反対の立場で町長選挙(平成15年)に出馬して惨敗した経緯がある。ところで、合併による功罪はいくつも挙げられるが功罪の判断がつきにくい事柄も存在する。そのひとつが埋葬に関する件であるが、日根村ではこれまでずっと土葬が行われてきたが合併を契機に火葬に変わったことである。土葬廃止当時、土葬の習慣は全国的に見てもその数が減少しつつあり、ある地方に集中する形で残存分布していたに過ぎなかった。
私がこの地に居住し火葬に変わるまでの10年間に7度の土葬に立ち会う機会が与えられた。日根村は三つの組に分かれており、組の中で死者が出ると組の構成員は道具方として働き、他の組のメンバーは野の方として働くという決まりがあった。道具方は墓標や棺桶などの製作を担い、野の方はもっぱら土葬のための穴掘りを行うという取り決めがあった。
これらの決まりはおそらく江戸時代にまで遡ることができ、村発祥の頃から引き継がれてきたと想像されるが、火葬によりその習慣が終焉し、併せて葬儀自体も自宅で執り行われることがほとんどなくなり葬祭式場を利用するようになった。その分、村民にとっては埋葬に係る手間がなくなり重荷が下りたが同時に慣習や決まりがなくなってしまうことについては何かさみしい思いが残る。それは土葬が村の団結をその都度強くする大切な働きをしてきたからである。
土葬と火葬の是非については火葬の方が望ましいと考えられている点に反論するつもりは毛頭ないが、昔からの慣習や伝統が失われることによって村の機能が弱体化の方向へ進むことを考慮に入れなければならない。少子高齢化が進む中で村の機能を保持し続けるためにはもう一度共同体社会構築への道を歩まなければならないことは避けられないと考えるが故に村の結びつきを弱体化する土葬の廃止は罪に当たるのかもしれない。
作品名:日根むら覚書 作家名:田 ゆう(松本久司)