日根むら覚書
日根むら覚書
1) 私の住んでいるところは現在の住所表記では岐阜県関市に属するが、日本史を辿ればちょっと前まで武儀郡の一角にあって日根村と呼ばれていた。合併の過程で今日では日根集落とか日根自治会と呼ばれように関市に数多くある自治会のひとつにまで相対的存在価値が低下し、村としての自主独立の気風は衰えたかに見える。
ここが日根村であったことを物語るのは今では「村社」白山神社だけだが、どこの村にも神社があり「むら」の精神的な存在であった。今なお、氏子たちにより祭礼が行われ社殿や境内の維持管理が続けられている。その村社を中心として「むら」の自立的な運営が営まれてきたと思われるが、区長箪笥の中を引っかき回しても古文書が残っていないのでその実態については古くまで遡ることはできない。しかし、この辺りにも当たり前のように村八分が行われていて村の掟に叛いたものが制裁を受けたに違いないと想像される。
日根村には森家と若林家の二つの姓が卓越するがいずれも近い血縁関係にあるというわけではなく、近隣の村との婚姻や転入出による移動で遠い親戚関係にある家を含めた緩やかな血縁関係を保持しており、先祖祭りと称して一同が会する催しが行われている。また、森家については森蘭丸との血縁関係が一時噂されたが、それを調べる資料もなく言い伝えも聞かないので関係なしという結論に至っている。
村は時代とともに変わりゆくのが常であり、日根村も例外ではない。自由主義経済や個人主義の風潮の中で変わるべきものは姿を変えてきたが、大きく変貌する要因は合併による行政機構の改革でありその都度、村は末端組織に位置づけられて上から押さえつけられる統制構造により自主独立性を喪失してきたという歴史がある。とはいえそれによってどこまで村としての存在価値を失うことになったかという点については現存するものや喪失したものを詳細に検討してみなければ分からないのである。
2) 日根村が村として自立していた頃の話はさぞかし面白かったに違いないと勝手に想像するけれど、実際は大変なことだったのかもしれない。無責任な臆測は差し控えたいが、村が自立して存在していたとすればその組織運営には相当な苦労が村民にのしかかっていたのではないかと推論される。なんせ、その頃の話は町史などどこを見ても紹介されていないのが実情だからである。
日根が村であった頃は江戸時代にまで遡るが、比根(ひね)と表記された頃の村の様子が新撰美濃志から窺うことができる。『比根村は神淵の奥田の西の方上保の大洞の東の方にありて、中保六ヶ村のうち北のはてなる里なり。尾張御領五五石四斗九升一合、名古屋まで十三里餘あり。白山社・大明神社ともに村内にあり。』当時の比根村は飛び地の久須集落が含まれており大明神社は石上神社のことを指している。
新撰美濃志は万延元年(1860年)成立とあるので江戸期の幕末の頃までは日根村として自主独立した存在であったと思われる。だから、われわれの世代から3世代ほど遡れば村であった頃の様子を知ることができるが当時を物語る資料がほとんど存在しないのは残念である。一方、濃州徇行記(1800年頃成立)には「茶を以て公税をつとめ諸作物は夫食にするなり、茶畠は新田ばかり二二町二反六畝餘あり、薄地ゆえ荏をも作れり」と書かれており茶畑が広がっていたことを語っているが当時の耕作状況を想起することは容易ではない。荏(え)とはエゴマの古名であり種子から油をとっていたのであろうか今日ではほとんど作付されていない。
私が知りたいと考えている村としての自主的運営の実態は依然わからないままである。だから、伝統や慣習として受け継がれてきた事柄から当時の村民の暮らしの一端を知る以外に方法がない。その慣習の一つとして死者の弔いと埋葬の儀式があり、そこから解き明かす方法が考えられる。もちろん、それとても時代の変化の波をかぶらざるを得なかったであろうが中保六ヶ村の北端に位置する村であるがゆえに今日まで残ってきた可能性があると言えよう。当時は今とは違って情報が伝わりにくかった、であろうし村の保守性が変革を拒んできた時代でもあった。
3) 私がこのむらに越してきたのが平成10年だからすでに15年の歳月が経過した。すっかりこの地に馴染んだかといえばそうとも言えないところがある。百姓見習いの「見習い」の言葉が取れないうちはここの住人としての資格はないと考えているし、名刺には「百分の一姓」と肩書きしているのは百分の一程度の百姓に過ぎない自分を自嘲気味に紹介せざるを得なかったからである。
このむらには自治会(当時は区会)があり住人は皆なその会に属しているが、新たな住人が自治会に入る場合に入会金を取るところがあるそうだ。例えばK市のある自治会では5万円の入会金を徴収していると聞く。これは大学勤務時代の同僚がK市に転入してきた際の話であるが、K市の自治会では入会金徴収が当たり前のこととして通用しているならば、私の場合はラッキーであったと言わざるを得ない、日根むらでは入会金は不要であった。
入会金の徴収が必要な理由も分からないわけではないが、金額が大き過ぎると入会することを拒むケースが出てくるはずで、実際に自治会への加入率の低迷が問題になっており、組織運営に支障をきたすばかりか近所付き合いさえママにならぬ事態に至っている。これでは自治会の役目は十分に果たせないし、その存在すら危ぶまれかねない困った問題である。とくに若い世帯が加入しなくなると高齢化したメンバーによる運営は早晩行き詰まることになるので入会金徴収は棚上げにしてその分今後の活動を通じて相殺してもらう方向で見直さなければならないであろう。
また、日根むらでは互助会があってかつては互助互酬のために幅広く活躍したと想像されるが、今日では冠婚葬祭などで互助会の備品を使う時などに用途が限定されるようになった。これは互助互酬という精神的な繋がりを必要とする風潮が次第に薄れてきたことによるが、今日再びこの互助精神が救済精神という目的で必要になってきたことについては別項で詳しく述べた。この互助会の加入にあたっては入会金の徴収があって規約により1万円を支払って入会させてもらった経緯があり、これによりこのむらの住人になったことを名実ともに認められたのである。
1) 私の住んでいるところは現在の住所表記では岐阜県関市に属するが、日本史を辿ればちょっと前まで武儀郡の一角にあって日根村と呼ばれていた。合併の過程で今日では日根集落とか日根自治会と呼ばれように関市に数多くある自治会のひとつにまで相対的存在価値が低下し、村としての自主独立の気風は衰えたかに見える。
ここが日根村であったことを物語るのは今では「村社」白山神社だけだが、どこの村にも神社があり「むら」の精神的な存在であった。今なお、氏子たちにより祭礼が行われ社殿や境内の維持管理が続けられている。その村社を中心として「むら」の自立的な運営が営まれてきたと思われるが、区長箪笥の中を引っかき回しても古文書が残っていないのでその実態については古くまで遡ることはできない。しかし、この辺りにも当たり前のように村八分が行われていて村の掟に叛いたものが制裁を受けたに違いないと想像される。
日根村には森家と若林家の二つの姓が卓越するがいずれも近い血縁関係にあるというわけではなく、近隣の村との婚姻や転入出による移動で遠い親戚関係にある家を含めた緩やかな血縁関係を保持しており、先祖祭りと称して一同が会する催しが行われている。また、森家については森蘭丸との血縁関係が一時噂されたが、それを調べる資料もなく言い伝えも聞かないので関係なしという結論に至っている。
村は時代とともに変わりゆくのが常であり、日根村も例外ではない。自由主義経済や個人主義の風潮の中で変わるべきものは姿を変えてきたが、大きく変貌する要因は合併による行政機構の改革でありその都度、村は末端組織に位置づけられて上から押さえつけられる統制構造により自主独立性を喪失してきたという歴史がある。とはいえそれによってどこまで村としての存在価値を失うことになったかという点については現存するものや喪失したものを詳細に検討してみなければ分からないのである。
2) 日根村が村として自立していた頃の話はさぞかし面白かったに違いないと勝手に想像するけれど、実際は大変なことだったのかもしれない。無責任な臆測は差し控えたいが、村が自立して存在していたとすればその組織運営には相当な苦労が村民にのしかかっていたのではないかと推論される。なんせ、その頃の話は町史などどこを見ても紹介されていないのが実情だからである。
日根が村であった頃は江戸時代にまで遡るが、比根(ひね)と表記された頃の村の様子が新撰美濃志から窺うことができる。『比根村は神淵の奥田の西の方上保の大洞の東の方にありて、中保六ヶ村のうち北のはてなる里なり。尾張御領五五石四斗九升一合、名古屋まで十三里餘あり。白山社・大明神社ともに村内にあり。』当時の比根村は飛び地の久須集落が含まれており大明神社は石上神社のことを指している。
新撰美濃志は万延元年(1860年)成立とあるので江戸期の幕末の頃までは日根村として自主独立した存在であったと思われる。だから、われわれの世代から3世代ほど遡れば村であった頃の様子を知ることができるが当時を物語る資料がほとんど存在しないのは残念である。一方、濃州徇行記(1800年頃成立)には「茶を以て公税をつとめ諸作物は夫食にするなり、茶畠は新田ばかり二二町二反六畝餘あり、薄地ゆえ荏をも作れり」と書かれており茶畑が広がっていたことを語っているが当時の耕作状況を想起することは容易ではない。荏(え)とはエゴマの古名であり種子から油をとっていたのであろうか今日ではほとんど作付されていない。
私が知りたいと考えている村としての自主的運営の実態は依然わからないままである。だから、伝統や慣習として受け継がれてきた事柄から当時の村民の暮らしの一端を知る以外に方法がない。その慣習の一つとして死者の弔いと埋葬の儀式があり、そこから解き明かす方法が考えられる。もちろん、それとても時代の変化の波をかぶらざるを得なかったであろうが中保六ヶ村の北端に位置する村であるがゆえに今日まで残ってきた可能性があると言えよう。当時は今とは違って情報が伝わりにくかった、であろうし村の保守性が変革を拒んできた時代でもあった。
3) 私がこのむらに越してきたのが平成10年だからすでに15年の歳月が経過した。すっかりこの地に馴染んだかといえばそうとも言えないところがある。百姓見習いの「見習い」の言葉が取れないうちはここの住人としての資格はないと考えているし、名刺には「百分の一姓」と肩書きしているのは百分の一程度の百姓に過ぎない自分を自嘲気味に紹介せざるを得なかったからである。
このむらには自治会(当時は区会)があり住人は皆なその会に属しているが、新たな住人が自治会に入る場合に入会金を取るところがあるそうだ。例えばK市のある自治会では5万円の入会金を徴収していると聞く。これは大学勤務時代の同僚がK市に転入してきた際の話であるが、K市の自治会では入会金徴収が当たり前のこととして通用しているならば、私の場合はラッキーであったと言わざるを得ない、日根むらでは入会金は不要であった。
入会金の徴収が必要な理由も分からないわけではないが、金額が大き過ぎると入会することを拒むケースが出てくるはずで、実際に自治会への加入率の低迷が問題になっており、組織運営に支障をきたすばかりか近所付き合いさえママにならぬ事態に至っている。これでは自治会の役目は十分に果たせないし、その存在すら危ぶまれかねない困った問題である。とくに若い世帯が加入しなくなると高齢化したメンバーによる運営は早晩行き詰まることになるので入会金徴収は棚上げにしてその分今後の活動を通じて相殺してもらう方向で見直さなければならないであろう。
また、日根むらでは互助会があってかつては互助互酬のために幅広く活躍したと想像されるが、今日では冠婚葬祭などで互助会の備品を使う時などに用途が限定されるようになった。これは互助互酬という精神的な繋がりを必要とする風潮が次第に薄れてきたことによるが、今日再びこの互助精神が救済精神という目的で必要になってきたことについては別項で詳しく述べた。この互助会の加入にあたっては入会金の徴収があって規約により1万円を支払って入会させてもらった経緯があり、これによりこのむらの住人になったことを名実ともに認められたのである。
作品名:日根むら覚書 作家名:田 ゆう(松本久司)