Deo.gracias
車幅に余裕ある車は、次から次へと方向を変えて動き出した。
そのおかげで、俺の車も何とか動かせる。
さすが軽自動車様々だ小回りが利く。
俺もいざ方向を変えて病院へと急いだ。
いつもの景色を見ているそんな余裕もなかった。
ただ気持ちは病院へと急かされていて、車を走らせていた。
今日の俺は何かを試させられているのだろうか?
1時間も掛らない病院まで行くだけなのに障害が多いこと。
ここにきて例のマークも出ちゃっている。ガソリンがない。
入れずに進むか、入れて安心して走るか。
今日のこの状況、途中でエンストは怖い。俺は入れていくことを選んだ。
その答えは裏目に出ているのか。スタンドは満員御礼。
ここも渋滞かよ。
順番待ちをしている車の中で、俺は、あの時のことを思い出していた。
いつものように早苗ちゃんと映画を見て食事をして俺の部屋で愛し合って、
ベッドの中で早苗ちゃんに腕枕をして、微睡んでいた時のことだった。
「ケンちゃん、あたしのこと好き?」
「もちろん、大好きだよ」
「じゃぁ 今すぐ結婚して」
「えっ?今すぐ?」
「今、好きって言ってくれたでしょ」
「そりゃぁ早苗ちゃんの事大好きだけど、急に言われてもさぁ」
「嫌なの?」
「いやじゃないよ。結婚するなら早苗ちゃんとって思ってるし」
「じゃぁ、今すぐ結婚してって」
「だから、心の準備ってものがあるでしょ。
早苗ちゃんの両親にも挨拶に行かなきゃいけないしさぁ」
「あたし....あたしの中で新しい命の花が咲きそうなの」
早苗ちゃんのその言葉に、正直あまりにも突然すぎて、言葉が出なかった。
この俺が、親父になる?!
俺には、生まれた時から父親の存在はなかった。
母さんと生きてきた。
父親がどんなもんなのか、どんな存在なのか、俺にはどうも掴めない。
俺の父さんってどんな人だったんだろう。
背の高さはどれくらい?
太っている?痩せている?
髪型は?目は?鼻は?口は?
声はどんなん?匂いは?
手の大きさは?
母さんが言う、男は背中ってどんな?
俺には、何ひとつ父さんの記憶がない。
写真も一枚も見たことがない。
キャッチボールだって、鉄棒の練習も、釣りだって、
みんな相手は母さんだった。
いつだったか、「僕の父さんはどうしていないの?」と母さんに聞いたことがあった。
俺は、深刻に聞いたんじゃなくて、ただほんの軽い気持ちで聞いたんだ。
なのに、母さんは、100円ショップで買った、鼻に髭がついたメガネをかけて、
「ほら、ケン太 パパだよ」って
黒くしなやかな長い髪を思いっきりバッサリとショートにしてきて母さんは俺にそう言ったんだ。
子供心にその姿を見たら、なんか切なくてそれからは親父のことを一言も言わないことにしたんだ。
考えればおかしな話。俺には妹もいるんだよな。
親父がいないのにどうして妹がいるんだ。
どう考えたって疑問だろ。
母さんは、一度も結婚したことがない。
それは、戸籍をとって改めて悟った。
父親の欄、俺も妹も真っ白だった。
「早苗ちゃん、結婚しよう」
「ケンちゃん.....」
「俺の子をちゃんと産んで」
「うん」
「温かい、家庭を作ろう」
「うん...」
俺は親父になる?!
どうしてだろう。嬉しい事なのに胸が痛くて切ない。
今まで意識もしていなかった父親の存在。
俺の親父ってどんな人だったんだろう。
早苗ちゃんのお腹が大きくなるに連れて、俺のその想いも大きくなっていった。
和んでいた久しぶりの家族での食事の時、
「ねぇ、聞いてもいいかな。俺のお父さんのこと」
母さんは、驚いていた。
「...今まで聞いたこともなかったのに?」
「俺も、父親になるから」
母さんに辛い想いをさせるつもりはなかったんだ。
ただどんな人だったのかそれが知りたかった。
母さんは、平静を装っていても、
口に運んでいた食べ物をぼろぼろとこぼす程、動揺していた。
Deo.gracias 3
クラクションの音でハッとした。
「兄ちゃん、あそこが空いているよ」
「あ、はいすいません ありがとうございます」
なかなか進まない病院までの距離、こんなに病院は遠かったっけ?
ガソリンを入れながら、大きく深呼吸をした。
焦る気持ちと、父親になるという気持ち、なんだか俺の頭ん中は目まぐるしい。
父の日に、母さんは、話があると俺と妹を並んで座らせた。
「お父さんのこと ちゃんと話さなきゃね」
妹は、興味がなさそうだった。
だけど俺は……。
「お父さんの話は、これが最初で最後だから、ちゃんと聞きなさい
さて どこから話そうかな」
母さんは、何か吹っ切れたのか淡々と話をしていた。
母さんの話を聞いているうちに遠い記憶がパズルをひとつずつ
はめ込んでいくように断片的に俺の脳裏に何かが浮かびあがってきた。
それは、妹が生まれる前の話。
きっと俺は6歳ぐらいだったろう。
春ごろなのか、桜が舞っていたような気がする。
母さんに手を引かれ電車に乗って上野の動物園に行ったんだ。
そこで母さんは男の人と会った。その人は背の高い人だった。
しゃがみ込んで俺と同じ目線で、俺に声をかけてきた。
「君がケン太君だね。年はいくつ?」
「6歳」
「いい子だ」
そう言って俺の頭をくしゃくしゃって撫でてくれた。
眼鏡から覗いたその瞳は優しかった。
何故だろう。顔は覚えていないのにそう思うのは。
頭を撫でてくれた、その手の大きさを俺は思い出していた。
あの時の、その人が、俺の父さんだったんだね……。
妹は泣いていた。
母さんは涙を堪えていた。
俺は、記憶のパズルを探していた。
そしてもうひとつの記憶が甦る。
雨にぬれる金木犀が匂う秋。
母さんのお腹が少しふっくらとしていた。
黒いワンピースを着て傘を差し俺の手を引いて黄色い金木犀の花が
咲き乱れる大きな木の陰で、大勢集まっていた葬式会場をじっと見ていた。
俺が、雨に濡れないように傘を傾けていて、母さんのかたほうの肩が濡れていた。
「さぁ、ここで手を合わせてサヨナラしようね」
「だれに?」
「母にね、たくさんのプレゼントをくれた人」
「プレゼント?」
「あなたが大きくなったら教えてあげる」
精いっぱいの笑顔で母さんは、あの時そう言った。
父さんの話を聞いたその日、母さんの前では泣けなかったけれど、
早苗ちゃんとお腹の子を抱きしめて俺は、泣いたんだ。
「ケンちゃん、お父さんの分も家族みんなで幸せになろうね」
そう言って早苗ちゃんは、俺を抱きしめてくれた。
そう、俺たちは幸せに向かっていくんだ。もちろん、母さんも、妹も、みんなで。
ガソリンを満タンに入れた。スタンバイはOKだ。
さあ、早く、行かなくちゃみんなが待つ病院へ。
かわいいわが子が待つ病院へ。
Deo.gracias last
車は、順調に病院へと向かっていた。
だけど、携帯電話が鳴るたびに、俺はドキッとする。
もう、生まれてしまったんじゃないかと。
俺の夢、どうしても叶えたい。
作品名:Deo.gracias 作家名:蒼井月