如意牛バクティ
さてカレーができあがり、ダマヤンと大人たちはアーシュラムの人々に配って歩いた。食堂があるにはあるのだが、アーシュラムの住人全員はとても入りきらないので、食事時になっても自由に振る舞うのをやめないで--アーシュラムでは住人は自由であることが尊重されていた。掃除や配膳などの仕事は、やりたい者、できる者だけがやればよかった--配ってもらうのを待つ人のほうが多い。広場で輪になって歌っている婦人たち、山脈に没したばかりの陽の光を惜しんで追いかけっこをしている子供たち、将棋をしている老人たち、ヨーガの座法をとって瞑想している僧侶たちなど、アーシュラムの好きなところで好きなことをしている人々全員を見つけて配らなければならなかった。
ダマヤンはマハー・ババの部屋へカレーを届けるために、大鍋を乗せた台車を押していた。
「ヒュンヒュンヒュンヒュン」
という聞いたこともない連続した音が、空から聞こえてきた。
「なにかしら」
ダマヤンは空を見上げた。すると、それはそこに浮いていた。
巨大な鉄の魚であった。大きな二つの目、うろこに覆われた体、尾ひれ…体の何箇所かについたガス灯らしき灯り…そして腹の部分にはゴンドラがつき、その両脇についたプロペラが回転して、その音を出しているのだった。
「神さま!?」
ダマヤンは驚いて目を見張った。旅芸人たちの演劇に出てくる獣神のたぐいかと思った。
「飛行船だ! 白いやつらだ!」
ダマヤンの近くでひとりの僧侶が叫んだ。
「ヤクシャが来ただよ!」
泣き叫ぶ老婦人たちもあった。
アーシュラム中が騒然となるまでにそう時間はかからなかった。
ダマヤンは首から下げた紅い石を両手で握りしめた。
(これからなにかたいへんなことが起こるんだわ)
そう確信していた。
如意牛バクティ 第七回 ダマヤン母の声を聴くのこと
その空飛ぶ鉄の魚はアーシュラムを取り囲む石壁の西側、ゴーピー川の岸の砂の上に着陸した。アーシュラムの石壁の上には人々が集まっていた。そこにダマヤンもいた。
ダマヤンはこの鉄の魚を見るにつけ無性に恐ろしい思いがこみ上げてきた。
(でも)
ダマヤンは眼をしっかりと見開いた。これから起こることをよく見ておかなくてはいけないような気がした。
プロペラの回転がゆっくりになって、ヒュンヒュンという音がすっかり止んでしまうと、魚の腹についたゴンドラの戸が空いて、人間がぞろぞろと出てきた。金髪碧眼、白い肌、カーキ色の軍服…疑いようもなくアルビオン人、東バラタ会社軍の者たちである。鉄の魚--結局のところ東バラタ会社軍の最新鋭飛行船に違いないが--と川岸の樹木にロープを張りはじめた。飛行船が転倒しないようにしているのだ。
「白いやつらがなんでこんなところに」
「ヤクシャじゃなくてよかっただよ」
アーシュラムの人々は様々に言ったが、ダマヤンも含めてみな一緒だったのは、心に湧き上がる、嫌な胸騒ぎだった。
やがてゴンドラからひとりの長身の男が出てきた。にび色のジャケットを着ている。軍服の男たちのなかでその紳士然とした様子はひどく目立ったので、ダマヤンの目をひいた。アーシュラムの石壁の上から、ダマヤンははっきりと見た。アーシュラムを眺めるジャケットの男の、蛇が獲物を見据えるような、突き刺すような眼の光を。
やがて飛行船の乗員たちが二十人ほど、最新鋭のエンフィールド銃を担いでアーシュラムに入ってきた。先頭にいたのは、あのにび色のジャケットの男だった。僧侶たちとしばらく話してから、マハー・ババの部屋へ入っていった。それから僧侶のひとりにダマヤンが呼ばれた。
「ダマヤンちゃん、マハー・ババジーがお呼びだ」
その僧侶のこわばった表情に、ダマヤンの心は恐怖に満たされた。逃げ出したい気持ちにかられた。しかし次のようにも思った。
(そうだ、マハー・ババジーにまだチャナマサラをお届けしてなかった。あんなに楽しみにされていたのに)
ダマヤンはみなしごになった自分をひきとってくれたマハー・ババを信じていた。どんなことがあってもあの人が守ってくれると思った。カレーと飯を椀に盛ると、椀を持って僧侶についていった。
歩きながら、ダマヤンはほとんど無意識に、紅い石のペンダントを首から外し、右手の手のひらで握って隠した。僧侶にそれを見られていることなど気にかけるほど、ダマヤンは狡猾な性ではなかった。
ダマヤンがマハー・ババジーの部屋に入ると、マハー・ババジーとアーシュラムの高僧たち、銃を持ったアルビオン人たち、それからあの背広の男がいた。
陰鬱な空気であった。それはダマヤンを怯えさせるには充分すぎた。
「あの、マハー・ババジー、夕食をお持ちしました」
ダマヤンは声を震わせてなんとかそう言った。
「おお、ありがとうダマヤン。机に置いておくれ」
マハー・ババは常と変わらず穏やかに言った。表情も朗らかだった。ダマヤンは椀を傍らの机に置いて、次のように考えた。
(なんにも悪いことなんか起こらないんだわ。私が臆病なだけなんだわ)
しかしそれでも体の震えは収まらなかった。
「ダマヤン、この方はな」
マハー・ババはダマヤンの目の前にいる背広を着たアルビオン人を手で示した。
「アルビオンの考古学者の、アレックス・カニンガム卿じゃ。東バラタ会社の考古学部門にお勤めで、バラタスタンの古代史を研究してらっしゃるそうじゃ」
ダマヤンはその男をあらためてよく見た。髪は金髪よりも白くてクリーム色だ。バラタスタン暮らしが長いのか肌は日焼けして褐色に近い。にび色のツイード調に仕立てた麻のジャケットとズボン、狩猟用のゲートルという装いだ。背が高くダマヤンの二倍もあるかのようだ。歳は二十歳ほどのようにみえるかと思えば、初老のようにも見える。薄く開いた青い眼が、ダマヤンに蛇を連想させた。
突然、蛇のような眼のその男、アレックスはダマヤンの前に進み出て、右手を胸の前に置き、跪いてみせた。これはアルビオン式の、彼らの王--現在それはロクサネという名の女王だが--に対する礼であった。
「アレックスとお呼びください。お会いできて光栄です」
慇懃に言った。バラタびとのバラタスターニー語よりもさらに流麗なバラタスターニー語であった。眼を上げてダマヤンを見た。視線が合ったとき、ダマヤンはぞくりとした。これまでこのような冷たい眼の光を見たことがなかったからだ。
「ダ、ダマヤンです」
押し出すように言って、震える手で合掌した。紅い石は右手に固く握ったままだったので、中夏式のような合掌になってしまった。
(どうか私によくしてください!)
心の中で必死に祈った。ようするにダマヤンはこの男が自分になにか恐ろしい危害を加えるだろうことをもはや確信していた。
「ダマヤンや」
「は、はい」
マハー・ババに呼ばれてダマヤンは体をびくっとさせて答えた。
「おまえ、紅い石を持っておったろう。あれをアレックス卿に見せなさい。考古学の調査のためにご覧になりたいそうじゃ」
マハー・ババはそこまで言って、ダマヤンの胸元にペンダントがないことに気づいた。
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu