如意牛バクティ
「おや、いつも首からかけてたじゃないか。どこに置いてきたんだね?」
「このまえ…なくしてしまったんです」
ダマヤンは嘘をついた。それは彼女にとって生まれて初めてのことだった。
「なくした? さっき厨房で会ったときもつけていたじゃないか」
「それは…」
ダマヤンが口篭もると、ダマヤンを連れてきた僧侶が、マハー・ババの耳元でに何事かをささやいた。
「ダマヤン、右手を開いて見せなさい」
マハー・ババは言った。ダマヤンはこれまでマハー・ババのこのような冷たい声を聞いたことがなかった。ダマヤンはしばらく沈黙した。そして次第に口を強く結び、眼を見開いていった。ダマヤンの心に怒りの感情が現れていた。このような怒りを感じたのも、彼女にとって生まれて初めてのことだった。
「いやです」
ダマヤンは震えることなく、はっきりと言った。マハー・ババの眼をまっすぐに見返した。ダマヤンの眼はマハー・ババを糾弾するかのようだった。マハー・ババは思わず目線をそらしてしまった。
「ダマヤン・バーイー」
アレックス・カニンガムの冷たい声が、石作りの部屋に響いた。バーイーとは姉妹の意で、女性を親愛を込めて呼ぶときに用いるものだ。
「突然のことで、怯えているんだね。無礼を許してもらいたい」
膝をついたアレックスは、ダマヤンと目線の高さが等しかった。笑みを浮かべた。その笑みは、あまりに不気味だったので、ダマヤンの怒りをたちまち凍りつかせた。
「私はバラタスタンの昔のことを調べていてね。君の持っている石は、とても古いものらしいんだよ。君はその石をお母さまからもらったんだろう? 君の故郷の人たちに聞いて、ここまで来たんだ。君を探すのには苦労したよ。石を見せてくれるだけでいいんだ。ね? お願いできないかな」
アレックスはやわらかい語調で説きながら、眼では、ダマヤンを睨みつけていた。ダマヤンは考えていた。なぜこの人はこんな恐ろしい眼ができるのだろう? 石を見せなければ殺すとこの眼は言っている!
「…は…い」
ダマヤン震える右手をゆっくり開いた。紅い石が現れた。
「おお…」
アレックスは感歎の声をもらして、その石を食い入るように見た。色はルビーのように紅いが、より透き通っている。完全な球体で、上部に穴がうがたれ、麻紐が通されている。球体の中央に、角のない牛、すなわち牝牛の頭を正面から見た形が、青黒い染料で描かれている。その牝牛の頭の下には、楔を組み合わせたような形の、文字らしきものが六文字ある。
「ディルムン文字だ!」
アレックスは細い眼をさらに細めて、文字を凝視した。文字を読むつもりらしい。
「バ…ク…ティ…バクティ!」
アレックスはそう発音すると、抑えきれぬというように笑いだした。
「ハ、ハ、ハ! ついに見つけたぞ!」
(バクティ!)
ダマヤンはこの音を知っていた。それは母の声としてだった。ダマヤンは思い出す。五歳の誕生日だったか、それまで母がつけていたこの紅い石のペンダントを、自分に渡したときのことを。
「いい、ダマヤン。この石をいつも身につけていなさい。この石はあなたを守ってくれるの。あなたが本当に困ったとき、本当に助けてほしいと願ったとき、バクティという牛がこの石から現れて、あなたを助けてくれるでしょう」
ほとんど忘れていた、この言葉を言った母の声を、いまダマヤンの耳ははっきりと聴いた。
反射的にダマヤンは再び右手で紅い石を握り、背後の戸に向かって駆け出した。だが戸の前に立っていたふたりの東バラタ会社兵に阻まれた。
「どいて!」
ダマヤンは叫んだが、兵士は無言でエンフィールド銃を抱え、無表情にダマヤンを見下ろしていた。
「どいてったら!」
ダマヤンはもう一度叫んで、兵士を押しのけようとした。
「取り押さえろ」
ダマヤンの背後でアレックスの凍てつく声が響いた。とたんにダマヤンはふたりの兵士に両腕を掴まれてしまった。
「放して!」
必死にもがくダマヤンに、アレックスが歩み寄った。
「どうしたんだね? ダマヤン・バーイー。なにも恐れることはない」
アレックスはまた膝をついて、ダマヤンに顔を近づけた。
「この石は昔から如意牛の牛黄といわれてきた、とても古い時代の遺物なんだ。バラタスタンの古代について知る貴重な手がかりなんだよ。そしてこの石を代々受け継いできたあなたの一族は、古い時代、そう、ディルムンと呼ばれた国の、末裔に違いない。ディルムンは母系相続だったことがわかっている。お母さまから遠い昔の話をいろいろ聞いているね? この石にまつわる話を? それを話して聞かせてくれないかね? これは私たちの会社にとって、いやバラタスタンの人々にとって、大事な研究なんだよ」
「私なにも知りません。放して!」
ダマヤンは全身を動かしてもがいたが、屈強なふたりの兵士から腕を振りほどくことはできなかった。
「ダマヤン・バーイー。これはバラタスタンの人々の幸せのために必要な研究なんだよ。協力してくれないかね?」
アレックスはまたダマヤンを蛇のような眼で睨みつけた。しかし今度はダマヤンの燃えるような怒りを凍らせることはできなかった。
「いやです。あなたは嘘をついています」
ダマヤンはアレックスの眼を見返してはっきりと言った。
(ふん)
アレックスは心の中で笑った。
(四千年経っても王女は王女だな。気位の高いことだ)
「これは君の自由になる問題ではないのだ。協力してもらうよ」
アレックスは立ち上がると、周囲の兵士たちに向かってあごをしゃくって、
「船に連れて行け」
と言ったので、ダマヤンを兵士たちが押しつつみ、叫んだりもがいたりして抵抗する彼女をマハー・ババの部屋から連れ去ってしまった。
部屋から連れ出されるとき、ダマヤンはマハー・ババを振り向いて、
「マハー・ババジー、助けて!」
と叫んだ。そのときダマヤンは見た。マハー・ババジーがうつろな眼をして、悲しげに自分を見て、ただ地に座っていたのを。
ダマヤンが連れていかれてしまうと、アレックスは息を吐いて、
「やれやれ、聞き分けの悪い子供ですな」
と言って、マハー・ババを見た。マハー・ババはアレックスを責めるように睨んでいた。
「手荒なことはせぬという約束だったはずじゃがな」
アレックスは肩をすくめてみせた。
「こういう場合、仕方がないでしょう。なに、これはただの考古学的な調査です。これ以上の暴力など、出番はありませんよ。ダマヤンくんの安全は保障します。女王陛下に誓ってもよろしい」
「そう願いたいな」
「ともかく院長殿のご協力には感謝いたします」
アレックスはマハー・ババにアルビオン式に敬礼すると、となりの兵士に向き直った。
「お約束の品を」
と言った。兵士はうなづくと、背に担いだ麻袋を座っているマハー・ババの前に置いた。ドシャリ、というような金属音がした。
「ではこれで」
アレックスは短く言うと、兵士たちを引き連れて部屋を出て行った。
アルビオン人たちが去ると、マハー・ババは麻袋の中を眺めた。そこにはたくさんの金貨が入っていた。
(許しておくれ、ダマヤン)
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu