如意牛バクティ
「それで、あなたは如意牛をどうするつもり? バラタの英知をアルビオン人には渡さない、ってわけ?」
「じつのところ、如意牛はバラタのものというわけではないのだよ」
ウパティッサは静かに言った。スジャータはいぶかしんで、
「どういうこと?」
「粘土板を見たならわかるだろう? あれはディルムンびとのものだ」
「まあ、そうだけど、ディルムンは滅んだんでしょ? ディルムンびとはもういないじゃない」
「それが、まだいるんだよ」
「ウパティッサジー。あなたは如意牛をそのディルムンびとに返そうっていうわけ?」
「そうだ。なにかが誰のものかなど、あまりの意味のないことだが、奪うことが正しくないのなら、そうするのがいいと思っているよ」
「ふうん…」
スジャータはしばらく黙って、思推してから、次のように言った。
「あたしね、兄さんに如意牛のことを聞いて、あの粘土板を見て、如意牛ってなんて素晴らしいんだろう、って思った。兄さんがとりつかれる気持ちもわかるの。あたしも一目会ってみたい。願いなんて叶えてもらわなくてもいいの。ただ会って、その力に触れてみたい…へん?」
「いいや、わかるよ」
ウパティッサは賛同した。パトナガルで見た如意牛の美しさを、この娘にも見せてやりたいと思った。そうすれば彼女が人々の心を喜びに満たす素晴らしい絵を描くだろうことが確信されたので。
「でもね、いまの兄さんがあたしは怖い。如意牛にとりつかれて、あたしに便りもくれないの。そりゃあお給料からここへ仕送りはしてくれるわよ。部下に使いさせてね。でもそれだけ。最後に会ったとき、あれはフォート・ビリーに会いに行ったときだったわ、兄さんの心は、古代の世界へ行ってしまって、私や現世の人たちがハエかなにかのように見えているようだった。あたしは怖くなって、泣いて帰ってきた…」
スジャータの眼が潤むのを、ウパティッサは黙って眺めていた。
「ねえウパティッサジー、ひとつ教えてくれない?」
スジャータが唐突に尋ねるので、ウパティッサはいぶかしんで、
「なんだね?」
「比丘って、出家して、人のいない森とかに住んで、ヨーガの修行をするのよね。なんのために、そんなことをするの? いいえ、誰のために?」
鋭いことを尋ねる、と思いながら、ウパティッサは答えた。
「はじめは私自身の安息のためだよ。だが突き詰めると、自然すべてに安息が満ちなければ、自分自身の安息は得られないことがわかるものだ。自然に密室は存在しない」
「じゃあ、ウパティッサジーは、誰かが苦しんでいたら、助けてくれる?」
「もちろんだとも」
静かに答えるウパティッサの眼を見て、スジャータは鼻水をすすり上げながら、ウパティッサに合掌して、次のようなことを言った。
「心穏やかなウパティッサジー、どうかあたしの願いを聞いて。あたしがお世話をするから、火傷が治るまでここにいてちょうだい。そして体が良くなったなら、兄さんのところへ行って、あの人を救ってください。兄さんはきっと、悪魔かなにかにとりつかれてしまっているの」
(悪魔…アルビオンでも我執や貪欲をそう呼ぶのか)
ウパティッサははじめてこのことを知ったが、スジャータのタパスが清らかに燃えているのを覗き見ると、
「わかった。約束するよ、スジャータ」
とスジャータに合掌して、次のように考えた。
(ああ、私は道を誤った。あの男を憎悪して、正しい道を誤った。なぜ私はあの男を救おうと考えなかったのか。妹が兄を救いたいと願うように、清らかな心で)
と。そこでウパティッサは自らのタパスを燃やすと、怯えている彼女の心に、そっと勇気の息を吹きかけた。
如意牛バクティ 第二十四回 孤虎ダマヤンに勇気を与えアンギラーサ・マヌーとプラセナジットそれぞれ干河を求むのこと
さてその頃ダマヤンは、アンガの深い森の中で、二グローダ樹の根元で、寝息をたてていた。昨夜ひとり森をひたすらに逃げ、疲れ果てて寝てしまったのだ。
ダマヤンは頬に冷たい感触を感じて、目を覚ました。
(雨だ)
ダマヤンは枝葉の間から、空を見上げる。薄暗い雲がすっかり空を覆って雨粒を降らし、ニグローダ樹の枝葉を伝ってダマヤンの体を濡らした。森の中で野宿などしたからだ、体中が虫に刺されてかゆかった。
ダマヤンは突然心細くなった。自分について考えたからだ。カルナと出会えたと思えば行き別れ、ウパティッサと出会えたと思えばまた行き別れた。薄暗い森にひとり、雨に打たれ、追手の影に怯えている。
(ああ、私は不幸だわ)
ダマヤンがひとり涙を流していると、右手の藪が、がさがさ、と音をたてて揺れた。それから、一匹の獣が現れた。
「きゃ…」
ダマヤンは悲鳴をあげそうになって、手で口を覆った。追手が近くにいてはいけない、と思ったのだ。
(虎!)
それは紛れもなく虎だった。黄色の毛に黒の縞、白い腹、鋭い目つきと牙…しかし、その虎は、猫を大きくしたような大きさでしかなかった。
(なんだ、赤ちゃんじゃない)
ダマヤンがほっとして気を静め、その子供の虎を見ると、右の前足が赤く染まっていることに気づいた。ダマヤンを見ながら歩き去ろうとしているが、その足を引きずって歩いている。
「まあ、虎ちゃん、怪我してるのね?」
ダマヤンは不憫に思い話しかけたが、虎のこと、返事をするわけでもなく、そのまま左の藪へと入っていってしまった。
そのままなんの音もせず、なんの姿もなく、ただ雨が降っていた。ダマヤンは次のことに気づいた。
(虎の子供がひとりで出歩くはずないわ。虎の子供はお母さんが常に守っているはずですもの。ああ、あの子のお母さんは、きっと死んでしまったのね)
と。この頃東バラタ会社の高官たちが、アルビオンの最新鋭のライフル銃を駆使して虎狩りをよくしていたという。この子供の虎の母親もあるいは彼らに撃たれて死んだのかもしれない。
それからダマヤンは、一瞬だけ眼が合った、あの子供の虎の眼の光を思い出した。
(あんな小さな子が、お母さんがいなくなってしまって、足を怪我して、雨に打たれて、あんなに力強く…)
心のうちにそう思うと、ダマヤンの消えかけていたタパスの火が火花を散らして燃え上がった。
(私はなにをいじけていたのだろう。あの虎も、カルナも、たったひとりで力強く生きているというのに。私だってひとりで、自分の力で生きていけるはずだわ)
と思うと、雨の中へと歩を進めた。そのとき子供の虎が現れた藪から、今度は人影が現れた。よく見知った顔であった。
「探しましたぞ、ダマヤンどの。フォート・ビリーへ帰っていただきたい」
螺髪を巻いたプラセナジットと、四人の弟子たちであった。
ダマヤンは一瞬逃げ出そうとも考えたが、ウパティッサが最後に言った言葉が耳に聞こえてきた。
「身を慎んで耐え忍ぶのだ。あなたを連れ去るために必ずカルナくんが現れるのだから」
そこでダマヤンはプラセナジットの眼を見据え、
「そうしましょう。ただし私は自分の意志であそこへ帰ります。私は自分の力で自分のことを行うのです。あなた方の暴力に屈したわけではないことを覚えておきなさい」
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu