如意牛バクティ
「さ、牛のお乳のお粥よ。お食べなさいな。お椀、持てる?」
と椀とさじを差し出した。乳の素晴らしい匂いが香ってきたのだが、いまはウパティッサはその香りよりも、女の顔のほうに目を奪われていた。美しさにではない。見覚えがあったのだ。
(なぜだ?…)
なぜだろう? どこかで見たことがあるような気がした。
ウパティッサが自分の顔を眺めて黙っているので、女は怪しんで、
「どうしたの? あ、沙門にはお肉どころかお乳も食べない人がいるって聞いたけど、あなたもそうなの?」
と尋ねた。ウパティッサは自分を救ってくれただろう人の顔を眺めつづけることの非礼に気づいて、
「いや、私は肉は食べぬが乳は食べる。いただくよ」
と言って合掌すると、椀を受け取って、ゆっくりと乳粥を食べた。ふいに、ウパティッサの焼けただれた頬を涙が伝っていった。それというのも、ウパティッサは次のように考えたからだ。
(ああ、これは素晴らしい食物だ。ここにはこの娘のタパスが注がれている。口づけなどなんになろう。彼女の自然への供物であるこの愛を私は受け取った)
と。
如意牛バクティ 第二十三回 スジャータ、ウパティッサに勧請するのこと
黙然と涙を流しながら乳粥を食べるウパティッサを見て、女は次のように思った。
(ああ、この沙門はきっととても立派な方なんだわ)
と。そこでウパティッサが乳粥を食べ終わるのを待ってから、
「ねえ、沙門さん。あなた何者? あなたの名はなんていうの? なんでこんな体中ひどい火傷になっちゃったわけ?」
と尋ねた。ウパティッサは椀を女に返して合掌してから、次のように答えた。
「私はサーリー村のウパティッサ。正しい生き方を求めるひとりの比丘にすぎない。わけあってヨーギンと戦い、私は破れた。クリヤー・シッディといってね。熱線を放つシッディがあるのだが、それに体を焼かれたのだよ…シッディと言っても、わからぬか」
「わかるわよ、ウパティッサジー」
女は納得した。このウパティッサという沙門がやんごとない事情を抱えているだろうことまで。
「ヨーガについて詳しいのだな」
「そりゃあね。バラタスタンが好きなの」
「ほう…君の名は?」
「あたし? スジャータよ」
「スジャータ? バラタの名だな」
「あたしが生まれた頃、父がバラタスタンの文化にかぶれていたのよ。でも父も母もアルビオン人よ。あたしはスジャータ・カニンガム」
「なんだって?」
スジャータというその女は微笑んだのだが、ウパティッサは眉をしかめてスジャータの顔を眺め、やがて理解した。わかってみると、うりふたつのように見えてきた。
「君は、お兄さんがいるだろう」
「兄さんを知ってるの?」
スジャータは驚いて尋ねた。
「東バラタ会社考古局長、アレックス・カニンガム卿だね?」
少し皮肉るようなウパティッサの言い方で、スジャータは察した。
「あたしはあなたの敵の妹ってわけね」
「そうなるな」
ウパティッサは隠す気も起きなかったので、そう答えた。
「どうするね」
嫌味ではなく率直にそれを聞きたくて尋ねた。
「どうもこうも、ないでしょ。あなたは火傷を治す。あたしは洗い物をする。そうでしょ? ひとつ教えてあげる。あたし、兄さんが嫌いなの」
スジャータはそう言って笑うと、椀を持って家の外へ行き、川から引いているのだろう、水で椀を洗い始めた。
(おもしろい娘だ)
ウパティッサの心が安らぎに包まれ、彼が微笑んでいると、スジャータは洗った椀を持って戻ってきて、
「チャイでも飲みましょうよ」
と言って、かまどでチャイを作った。ふたりはそれを飲んだ。辺りは静かで、鳥のさえずりだけが聞こえてくる。
「いくつか聞いてもいいかね?」
ウパティッサが尋ねた。
「あたしと兄さんについてね? 事情聴取ってわけね」
「まあ、そうだ」
「いいわよ。ここに来て半年になるけど、町に買出しに行くとき以外は、誰とも話さないから、話がしたかったところだし。あなたみたいな立派なヨーギンとなら、なおさらよ」
スジャータはチャイを飲みながら、屈託なく言う。スジャータはウパティッサの穏やかで力強いタパスを、ぼんやりながら見ることができるらしい。絵描きの才能ゆえだろうか。
「私は立派なヨーギンなどではない」
「まあいいじゃない。で、なにを聞きたいの?」
「絵が好きなのかね?」
ウパティッサは辺りのキャンバスを眺めながら言った。そこにある森や空を。
「うーん、正確に言うと、バラタスタンの自然が好きなの。アルビオンにももちろん自然はあるけど、ほとんど人の手が入っていて、なんだかせせこましいのよ…ここの自然は、雄大で、力強くて、美しいわ」
「ほんとうに…」
ウパティッサは描かれた森の数々に見惚れた。ウパティッサの心に働きかける力がそこから放出されていたので。
「これは素晴らしい絵だ」
そこでウパティッサは率直に感想を述べた。
「そう思う?」
スジャータはウパティッサの顔に眼を移して言った。
「これは森の姿をしているが、実は君のタパスだ。君の自然への賛同が、これを描かせたのだ。この絵からは君のタパスが世界に向けて放たれている」
これを聞いてスジャータはぱっと顔を輝かせた。
「へへ…」
と照れてみせた。
「絵を描くために、ここにいるのかね?」
「そうよ。あとね、あたし夢があるの。如意牛に会って、如意牛の絵を描きたいの」
(この娘も如意牛か)
ウパティッサはことの縁起に思いを馳せ、笑った。
「おかしい?」
「いや、そうではない。君の兄さんは、それを知っているのかね」
「まさか…兄さんとはもうずいぶん会ってないわ…ねえ、兄さんのこと、嫌い?」
スジャータが悲しげな顔で尋ねるので、ウパティッサは少し考えてから、
「正しい比丘は好きだとか嫌いだとか、考えぬものだ」
「気取らないでちょうだい、ウパティッサジー。大嫌いなくせに」
「まあ、感心しないな」
ウパティッサがそう言うと、スジャータはいっそう悲しげな顔になってしまった。
「アレックス兄さんは昔はあんなふうじゃなかった。バラタスタンの自然や文化に憧れて、如意牛に憧れて、東バラタ会社に入って、熱心に考古学の調査をしていた。どこにでもいる、研究熱心でロマンティックな考古学者だったの。兄さんが変わってしまったのは、あたしがアルビオンから絵を描くためにここに来た頃、如意牛のことが書かれた遺物を見つけてから。如意牛は実在する、自分が手に入れてみせる、って、狂ったように私に言った」
「粘土板だね?」
ウパティッサに言われて、スジャータは彼と視線を合わせた。
「どうして知ってるの?」
「フォート・ビリーに忍び込んで、私も見たんだよ。そのせいで、こうなったがね」
ウパティッサは自分の体を示すように腕を広げて見せた。
「フォート・ビリーで、兄さんに会ったの?」
「ああ、会ったよ」
「あなたが戦ったヨーギンって、兄さんの手下?」
「そうらしいな」
スジャータはため息をついて、
(あたしは必ずこの人の体を治してみせる)
とひそかに決意した。
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu