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如意牛バクティ

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 「今度は了解がいかんな。虎の子を巣に戻すから来いじゃと? なーんでわしがそんなことをせにゃならん。おぬしが自分でやったらよかろうに」
 「わしは世を捨てたからの」
 「ほ、おぬしは世捨て人、わしは俗人か。都合がええの」
 「そういうこっちゃ」
 「のうダスー」
 マヌーは少し背を伸ばして座りなおした。これは頼みごとを始める人のしぐさだ。
 「そろそろここを降りたらどうじゃ」
 「なんじゃと?」
 「まあ聞け。近ごろ世はひどいありさまじゃぞ。アルビオンどもはバラタのいっさいがっさいを船で持っていってしまう。ウルスのハーンはそれを祝福して波止場で見送っておる。アルビオンどもの兵隊に銃を突きつけられながら、な。バラタびとはといえば、アルビオンどもの積み残した荷を奪い合ってつかみあいの喧嘩じゃ」
 「ふん、知っておるわい」
 「ほう、たいしたシッディじゃな」
 この雪山の中から俗世を見渡すタタガット・ダスーのシッディとは、いったいどこまで神、自然の力に肉薄しているのだろうか。
 「わしのシッディなんぞではな、せいぜいアルビオンどもの船の周りの風を止めるくらいしかできん。じゃがやつらは近ごろ蒸気船でやってきおるからの。つまりわしにはなーんにもできんのじゃよ」
 マヌーは嘆じてみせた。
 「じゃがおぬしなら、できる」
 「なんじゃ、わしに船を壊せっちゅうのか」
 「できようが?」
 「マヌーおぬし、俗世暮らしで呆けたな」
 「呆けとりゃせんわい。わしゃ本気じゃぞ。かつてわしとバラタスタン中を旅して悪漢どもを成敗して回ったあの頃を忘れたとは言わさんぞ。いままたバラタにはおぬしのそのタパスがいるんじゃよ」
 「ふん」
 ダスーは息を吐き出して言った。
 「あの頃のことを忘れたのは、おぬしのほうじゃ」
 「ほう?」
 「見よ」
 ダスーは洞穴の外、雪山の裾野のほうを指差した。
 「ごてごてに粉飾された城郭じゃ。暴力で骨組みが作られ、狡猾と臆病と愚鈍とが収められとる。貪欲という武器で武装し、嘘という装身具で飾りたてた怪物どもの城じゃ。あの頃のことじゃと? 覚えとるとも! 私腹を肥やす地主を懲らしめれば、今度はその地主の蔵の米を奪い合って罵り合う小作人たち。借金のために殴打される者をシッディで助ければ、今度はシッディで金を出してくれだの高利貸しを殺せだのわめく。よう覚えとるよ! あの愚劣と憤慨とに満ちた恐ろしい旅のことはな! 俗世は自然を敵とみなし、ゆえに隣人を敵とみなして恐れ罵倒し奪い殺す。わしが自然になることを望もうが望むまいが、わしは連中の敵じゃ。もっとも、連中の友は金貨や宝石の装身具だけじゃがの!」
  ダスーは声を荒げた。カルナが炎から眼を離してダスーを見た。カルナとともにいるときには決してないことであったので。
 「おぬし」
 マヌーはため息をついて、ダスーを哀れむというように、眼を細くしてダスーを見て言った。
 「まだバクティを求めておるな」
 言われてダスーは鼻から息を出して、興奮を静めるようにした。「ふん、おぬしの顔なんぞ見とると、昔を思い出すだけじゃよ」苦々しげに言った。
 「バクティ?」
 カルナがこの音を聞きとがめてマヌーに言った。
 「ほう、カルナや。おぬしバクティを知っちょるのか」
 「うん、ダスージーが教えてくれたよ」
 「カルナ、芋煮はどうした」
 ダスーが叱るように言った。
 「芋ちゃんもうなかったよ」
 「そんならとってきなさい」
 「はーい」
 カルナは追い出されてしまった。芋--葛のようなものだが--を求めて洞穴の外に出かけていった。
 「バクティのことも教えたか。あの子に伝承したっちゅうわけじゃな」
 マヌーがからかうように言った。
 「寝かしつけるのに歌っただけじゃ」
 「ほほ、まあええ…あの頃か、懐かしいの。わしもおぬしも若かった」
 「ああ、若かった」
 ふたりはしばし昔日に思いを馳せるのだった。

 遠い日、雪山へ続く深い森で、ふたりの青年が言い合いをしていた。
 「如意牛だと? バクティだと? ディルムンの飼い牛だと? 笑わせる! ダスー、そんな迷信を信じて世を捨てるのか? バガヴァンのお話はただの寓話だ!」
 これは若かりし日のマヌーだ。バガヴァンというのは"先生"という意味だ。ダスーとマヌーは同じ師に学んだに違いない。
 「マヌー、バクティは迷信なんかじゃない」
 そう言ったのは、若かりし日のダスーだ。
 「おまえになぜそれがわかる」
 「バクティは、バラタのいちばん古い言い伝えだからだ。バガヴァンはそう言ったろう?」
 「どういう意味だ?」
 「人が嘘をつくのは、奪われるのを恐れるためだ。人が奪うのは、相手を信じぬからだ。だからまだ誰も奪わず、なにも恐れるもののなかった太古には、嘘はなかったはずだ」
 「おまえそれは思い込みというものだ」
 「俺のタパスが」
 青年ダスーはおのれの胸を親指で突いてみせた。
 「そう告げるのだ」
 青年マヌーはそれで黙ってしまった。
 「マヌー、俺は雪山で修行を完成してみせる。そしてバクティに願いを告げるのだ。人間を自然と切り離す傲慢、貪欲、狡猾…これらすべてを消してなくしてくれ、とな。俺たちをこの苦しみから解き放つ方法はこれ以外にないんだ。雪山に逃げようとも、人の放つ憎悪というものは、天を飛んで自然にあまねく降りそそぐのだからな」
 「ダスーよ…もう止めまい」
 ふたりは抱擁するのだった。

 老仙マヌーは咳払いをひとつしてから、歌った。
 「このタタガット。欲もなく憎悪もなく、バラタの英知にしてまたディルムンの裔。そのシッディは、貪欲の野、狡猾の森を焼き払い、その身は、雪のすみかの峰から峰へ渡る。誰か知らんその最後の言葉、まつ毛きらめくバクティいずくにかあらんと」
 「なんの真似じゃ」
 ダスーはじろりとマヌーをにらんだ。
 「ここに来る前、カリンガでな、子供が歌っておったんじゃよ。この古い歌をな」
 「ふん」
 ダスーはかまどに薪を放り込んだ。これは昔タタガット・ダスージー--自然の理から来たダスーさんというほどの意---とアンギラーサ・マヌージー--尊いマヌーさんというほどの意--を称えて作られたたくさんの歌のひとつだ。
 「わしとて忘れてなどおらん。あの旅で知った、俗世の恐ろしさ、醜さはな。おぬしが如意牛を求めてここへ来たのも、忘れるはずがなかろう? そして俗世の人々もな、おぬしのタパスを忘れてなどおらん。なるほど俗人っちゅうのは貪欲と臆病のためにしばしば盲目となる。じゃがおぬしが示したタパスは、しっかり心に刻んでおるんじゃよ。なんといっても、俗世もまた自然のうちじゃからな」
 マヌーはそう説くのだった。
 「それがなんじゃ」
 「聖仙タタガット・ダスーの燃えるタパスの伝説は、親から子へ伝承されておる。これはそれまでの話じゃ。じゃがな、この古い歌に、一節だけ、新しく続きができておったんじゃよ」
 「続きとな?」
 「うむ。こうじゃ…白いやつらの船の中、バクティの牛黄が海に去るのを、タタガットジーはどこで見るのか」
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu