如意牛バクティ
「うんと、うんとね…この山をね、花でいーっぱいにする！そんでこの野に鹿ちゃんもうさぎちゃんも鳥ちゃんもいーっぱいにして、川に魚ちゃんをいーっぱいにして、空は毎日毎日思いっきり晴れにして、夜も太陽が沈まなくして、そんでおいらは飛び回ったり泳ぎまわったりして、みんなと遊ぶのさ」
カルナは眼を輝かせて言うのだった。
「なるほど、そりゃええのう」
ダスーは笑いながら言った。そんなところだろう、と思っていた。
「じゃがカルナ、バクティはどうやったら会えるか、わしはなんと言った」
ダスーは問うた。
「えっと、修行を完成させたら、会えるんだろ？」
「修行の完成とはなんだとわしは言った」
「自然に…なる！」
カルナを両手を握り締める。それはカルナの知る自然の力を表現した。
「そうじゃ。見よ、カルナ」
ダスーは膝元のカルナから顔を上げて、青空を見上げる。地平線まで延々と続く雪山、山裾に群がる樹木たち、滑空する猛禽、目の前の氷穴と水流、花々。ひとつずつ指し示した。
「どうじゃ？ 自然にはなんだってできるぞ。できないことなんぞひとつもない。おぬしが自然になれたなら、そのときもうおぬしにはなんだってできるんじゃ。だからバクティに会わなくとも、おぬしの願いはそれでかなうんじゃよ」
「うん…」
カルナはいちおう納得した。ダスーが示したひとつひとつに、カルナは欠点を見いだしえなかったので。
「あんまりバクティのことばかり考えるな。これを」ダスーは手を広げてそれを示す。「感じるんじゃ。それでええ」
「うん！」
言ってカルナは深く呼吸した。師の教えを即実践できるのが、カルナの才能であった。
「ええ子じゃのう、カルナは」
ダスーはカルナのわきをくすぐってやった。
「ぎゃー！」
カルナは転げ回って喜ぶのだった。
この様子を見ていたのは、鳥やうさぎたちだけではなかった。人間がひとり、ダスーとカルナがいるところに向かって山肌を歩きながら遠く見ていたのだ。
（聖仙ともあろうもんが子供と遊びほうけちょるとはのう。いよいよ呆けてしまったか）
とあやしんでいるのだが、この男を見れば、つぎはぎだらけの腰巻と死牛のサンダルをはき、たすきがけにした風呂敷--托鉢と食事とコップを兼ねた椀やら針やら糸やら入っているに違いない--を入れている。典型的なバラタスタン遍歴行者の風体である。老仙ダスーと同じように髪は真っ白だ。
(ん？)
老遍歴行者に、ダスーが立ち上がるのが見えた。
「どれ」
とダスーはすっくと立ち上がった。八十は超えるであろう老人とは考えがたい、壮健な立ち居であった。
「ちょっとやってみせるぞい」
そう言ってダスーは水流に向かった。
「うん！」
カルナは期待した。バラタスタン中の人々が目にすることを望んでやまない聖タタガット・ダスージーのシッディ（ヨーガによる神通力）。生きながら伝説化したダスーの名声など知る由もないカルナにとっても、ダスーの力を見ることはやはり特別なことだった。
「自然をな、感じるんじゃ」
ダスーは辺りを見渡す。空には雲ひとつない。陽光に限りはなく、猛禽たちの滑空が風の形を教える。
「うん」
カルナは真剣にうなづく。
「おのれと自然を比べてみる」
「うん」
カルナもダスーとともにそういうことをやってみていた。
「こうするとな、燃えてくるんじゃよ、タパスがな」
「うん！」
ダスーは水流に飛び込んだ。たちまち煙のようなものが猛烈に吹きだしカルナを覆った。これは水蒸気だ。
「わわっ」
と驚くカルナが見れば、河床に立って天を仰ぎ見るダスーの姿があった。驚いたことがあったものだ。ダスーの周囲の水がなくなっていた。蒸気になって空に昇っていってしまったのだ。そしてダスーの身体は、赤い炎に包まれていたのだった。
「え、ええー？？」
眼を丸く見開くカルナをよそに、ダスーは空を見上げ、手を差し伸べ、身よりいずる炎に包まれ、河床に立っていた。
如意牛バクティ 第三回 アンギラーサ・マヌー昔日を歌うのこと
そこに現れたのが、杖をついた老遍歴行者だった。
「変わらんの、ダスー。おぬしのタパスは」
大いに笑った。
ダスーは老遍歴行者を振り向くと、河床を蹴って跳躍し、河岸に降り立った。レイヨウさながらであった。ダスーが水をくりぬくように作った穴は、たちまちガンゴの水流によって元通り埋められた。
「ふん、山暮らしでだいぶ呆けてきたがの」
「ほほ、戯れじゃよ」
ガンゴの水流を溶かすほどのシッディを持つダスーのこと、一由旬--ヨージャナyojana。1ヨージャナは約7kmともいう--離れた人の心を読むなど子供と遊びながらでも造作ないということらしい。
「大きゅうなったの」
老遍歴行者はカルナを見て眼を細くした。カルナはといえば、身動きひとつせずこの老人をまじまじと見つめるばかりだった。
「カルナや」
ダスーはカルナの頭をなでてやった。
「この人はな、アンギラーサ・マヌージーじゃ。わしの古い友達でな。挨拶なさい」
それでカルナははっとして、その人、マヌーに合掌して頭をぺこりとさげた。
「ほいほい、ありがとう」
マヌーは大いに喜んでカルナに合掌を返した。
（熊ちゃんみたいなタパスだ。あーびっくらした）
カルナは驚いていた。この杖をついた老遍歴行者の内なる魂、タパスが、カルナには、この雪山で稀に出会う畏怖すべき熊のそれに見えたのだ。
洞穴の中で、カルナはかまどの火を作っていた。ダスーに芋煮を作るように言われてそうしているのだが、カルナは火を作りだすと、炎の様相に引き込まれてしまうのだった。だからダスーとマヌーが話していることも、ほとんど聞こえてはいなかった。
「言葉どころか、礼まで教えたか」
マヌーが笑った。
「なにがおかしい」
ダスーはカルナが見つめる炎を、同じように見つめていた。
「ほほ、俗世を捨てたおぬしが、そんなことをすることがじゃよ」
「この子はわしとは違うでな」
ダスーはカルナを見て言った。眼を細めて、慈愛をそそいだ。そこでマヌーも同じようにした。
「まあ、そういうことじゃな」
カルナは俗世に捨てられたまでで、カルナ自身はまだなにも捨ててはいないということらしい。
「十年になるかの」
マヌーが懐かしむように言った。
「十年じゃ」
ダスーがうなづいた。
マヌーは思い出す。まだよちよち歩きのカルナが、この洞穴を這いずり回ってきゃっきゃと笑っていたことを。ダスーとふたり、そのさまを見て笑っていたことを。
「そうじゃ、あのときおぬしはかわいい虎の子供を見つけたから見に来いなんぞと言ってわしを呼んだな。はじめわしは怒ったもんじゃ。シッディをこんな用事に使ってはばちが当たるとな。じゃがここに来てみて了解したもんじゃった」
マヌーが思い出しながら言う。シッディを使うとは、遠く離れた土地に意思を飛ばす千里意、マナス・シッディでダスーがマヌーを呼んだということに違いない。
「じゃがな」
マヌーはカルナからダスーに眼を移して言った。
作品名：如意牛バクティ 作家名：RamaneyyaAsu