如意牛バクティ
と、転げ回るカルナを指差して大いに楽しげに笑った。それまでチャビリーが一度も見せたことのなかった、心からの笑いであった。チャビリーガールズもまた身をよじらせてくすくすと笑った。無理もない。カルナが必死に熱がるさまは滑稽であるだけでなく、すこぶる愛らしかったから。もちろん、このように笑うのは、カルナが腰巻が燃えたくらいでひどい火傷を負うようなヨーギンではないことも知っていたからだけれども。
カルナが草に尻をこすりつけたりしてなんとか腰の火を消すと、チャビリーが目の前に膝をおろした。カルナが見れば、美貌を微笑ませて、なんとも輝かしかった。
「おまえがあの娘を取り戻し、アルビオン人から如意牛を守りたいのなら、我らもまた同じだ。仲直りをしよう、カルナ。おまえのタパスは美しい」
チャビリーはそう言って合掌した。カルナは少しのあいだきょとんとしていたが、ようやく了解して、チャビリーに合掌すると、
「チャビリージーのタパスは花の野で遊ぶ虎ちゃんみたいだ。強くて静かで優しくて、おいら好きだよ!」
と言ってにっこり笑った。そこでチャビリーはふふ、と微笑んで、辺りを見回した。丸く巨大な大地と空、植物たちの繁栄、鳥たちのさえずり、太陽。それらの調和の音楽がそこにあった。
(安らぎ、か。悪くはありませんな、バガヴァン)
チャビリーは心のうち、マヌーに対して合掌した。
如意牛バクティ 第十八回 チャビリー願いを捨てウパティッサ三昧にいたるのこと
カルナは馬の背で、チャビリーの腰につかまっていた。チャビリーガールズも後ろに続く。馬は疲労していたのだろう、ゆっくり歩を進めていた。
「おいらやっぱり、早くダマヤンを助けに行きたい」
カルナはチャビリーに訴えた。チャビリーにカリンガへ行くから乗れと言われて馬に乗ったものの、一刻も早くダマヤンを救うことしか考えられなかった。
「心配するな。カリンガへ行けば、向こうから来てくれよう」
チャビリーは手綱を持ったままカルナを振り向いて言った。
「どして?」
カルナが首をかしげると、チャビリーはふっと微笑した。
「おまえにはわからん。政治の話だ」
「政治って、なにけ?」
チャビリーは黙って前に向き直ってから、ため息をついた。
(俗世の醜さも知らぬ、雪山の子、か)
と心のうちあきれ、また少し羨望もした。
「人を従わせる業だ。人とはさまざまでな、純朴な者もいれば、貪欲な妬み深い者もいる。じつのところ、人の多くが貪欲のとりこだ。ゆえにほうっておけば世は殺し合いの巷となる。力を用いる者が要るのだよ。私は王だからな、そういうこともせねばならん」
「ふうん、へんなの」
「そう、滑稽なものだ」
チャビリーは自嘲するように笑った。暴力を防ぐために暴力を用いる矛盾に、であったろうか。
「じゃあ、貪欲な悪い人がいなければ、チャビリージーは王様なんてやらなくてもよくなるってこと? みんながなんにも心配しないで、自由でいられるってこと?」
カルナはチャビリーの背中をつんつん突ついて言った。
「ああ、そうなるな」
チャビリーは無邪気な子供に付き合うのが少し面倒になってきたが、一応同意してやった。
「どうすれば、悪い人がいい人になれるのかな。悪い人がいなくなるのかな」
カルナは真剣に考えるので、チャビリーはおかしくなった。
「バガヴァンが、マヌージーが言っていたよ、カルナ。人は努力して自然について学ばなければ猿と変わらぬ。学ばぬ者は奪い殺せばいずれ自分もまた奪い殺される自然の性質を知ることができない。そして人とは努力して学ぶことを嫌う。人になんと勧められようと、多くの人は、自らの力で自らを研くことに意義を見出せぬ。学ぶことで明日のことを予測する知性を持てぬ者は、今日の安楽を求めて奪い殺すのみだ、とな。ゆえに、おまえが求める方法はないな」
「ふーん…」
カルナは諦めずにまだ考えた。そしてひらめいた。
「バクティに頼めばいいんだ! でしょ? でしょ?」
チャビリーの腹をぽんぽんと叩く。以前のチャビリーであれば、またカルナでなければ、自分の背中をつついたり腹を叩くような者があれば首をはねてしまったかもしれない。
「なんだと?」
チャビリーはもう一度カルナを振り向いた。
「おいらダマヤンと話してて、ふたりでバクティにお願いをしようって約束したんだ。ダマヤンがバクティの牛黄を持ってると、バクティにお願いをしようって、いつまでもだれかがダマヤンを追いかけてくるだろ。だからバクティに、もうだれもバクティに願いを叶えてもらおうなんて、考えなくなるようにしてもらおう、ってね。でさ、人がむやみに欲しがると、貪欲になると悪い人になるんだったら、バクティに頼んで、人が貪欲にならないようにしてもらえば、悪い人はいなくなるじゃん! チャビリージーがバクティにバラタの王様にしてくれってお願いしたのは、悪い人が悪いことをするのがいやだからだよね? おいらとダマヤンが考えたお願いも、よく考えたらおんなじことだよ。だからさ…」
満面の笑顔で嬉々として話すカルナに、チャビリーはぷっと噴き出すと、少女のようにくすくすと笑った。
(あれほど燃えさかっていた私の憤怒と苛立ちの炎が、心地よい霧に包まれて消えていくようだ。これがおまえのタパスの力か。私の負けだよ)
とあきれ返ると、
「良いよ、カルナ。如意牛のことは、おまえとあの娘の好きにするがよい」
とカルナに笑いかけた。カルナは自分のひらめきの素晴らしさにいつまでも嬉々とはしゃいでいた。カルナのこのひらめきは、若かりし日のダスーが雪山にこもるきっかけとなった考えと同じものだったわけだが、カルナはそんなことは知るよしもない。
「それはそうと、おまえと娘を襲ったのは、どんな者だ」
チャビリーは当面の問題に考えを移して尋ねた。
「五人いたよ。みんな体に白いものを塗ってた」
「塗灰行者か。名乗らなかったのか」
「名前を言ってたけど…忘れちゃった」
プラセナジットのクベーラ・シッディによる攻撃は、カルナを廃人にはできなかったが、その正体を忘れさせる効果はあったようだ。
「そうか。では良い」
チャビリーの気がかりはこのことに他ならなかった。どのような形にせよカルナを打ち倒した以上恐るべき敵であるからだ。
カルナとダマヤンが踊った丘からカリンガまでは、バラタスタンの尺度では、決して遠くはない。カルナは三日後にはカリンガの土地--バラタスタン亜大陸の東海岸--に生まれて初めて到達した。
そうしてチャビリーがマヌーに、マヌーはウパティッサに、カルナを保護したこと、ダマヤンは何者か、おそらくはアレックス・カニンガムの手の者に拉致されたことを、マナス・シッディで伝えた。なんとも便利なものであるが、世の常のヨーガ行者に真似できることではないことは断っておかなくてはならない。彼らは自らの力を自らの努力で引き出すことのできる、自然と自らの力への疑惑と、怠慢とを克服した、激しいタパスを燃やす人間たちだ。
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu