如意牛バクティ
カルナは飛行船を追いかけながら、船の腹部、ゴンドラの窓を見る。青黒い肌の女の子が、窓を叩いているのが見えた。胸元に紅い光が見えた。カルナはその窓をめがけて駆けていった。
ダマヤンは窓を破ろうとガラスを両腕で必死に叩いていた。
(開かない!)
どうしても開かない。ガラスは恐ろしく分厚く、ピストルの弾丸も弾いてしまいそうなほどだ。窓のすぐ下にもうガンゴ河の砂浜が走っている。いまにもぶつかりそうだ。
ダマヤンが目線を上げると、青黒い肌の、裸形の男の子が髪を振り乱して、自分をめがけて駆けているのが見えた。眼と眼が合った。
「あの子だ!」
ダマヤンは叫んだ。そのとき部屋の戸がバンッと開いてアレックスが飛び込んできた。
「ダマヤン・バーイー、ここは危険だ、こっちに来たまえ!」
「いやよ!」
背後を振り向いてダマヤンが拒絶の声を上げたとき、ズズン! という音ともに部屋の床が盛り上がり、木板がバキバキと音を立ててへし折れていった。ダマヤンの体が宙に浮いて窓に叩きつけられ、部屋中にかかった圧力で窓枠がゆがみガラスが割れた。そうして飛び散るガラスとともにダマヤンはとてつもない勢いで船の外へと投げ出された。
「ちょう!」
異な掛け声とともにカルナは跳躍した。足をばたつかせ、両手を差し出し、そうしてついに、ダマヤンの体をがっしりと抱きとめた! 投げ出されたダマヤンを推力に、ふたりの体はまっすぐに宙を飛んだ。
「あなたは!」
ダマヤンはカルナの腕の中で彼の顔を見上げた。
「おいらカルナだよ!」
カルナはにっこりと、力強く、たくましく、笑った。
「私、ダマヤン!」
ダマヤンはカルナの胸に顔をうずめた。涙がどっと流れ出た。心の底から湧き上がる喜びと安らぎが、眼からもまたあふれ出たので。
如意牛バクティ 第十二回 カルナとチャビリー大いに戦うのこと
カルナとダマヤンはしっかと抱き合ったまま宙を飛び、カルナを下にしてガンゴの砂浜に激突した。砂煙がどっと舞い起こった。
飛行船マツラ号は、腹部のゴンドラ部分こそ大破したものの、船体は無事だった。しかし蒸気機関の石炭炉からだろう、火を噴き煙を上げた。諸人は距離を置いて取り巻き、ことの行く末いかにと眺めていた。
ダマヤンはカルナの胸に顔をうずめたままだった。砂煙が風に飛ばされていったのを感じて、ダマヤンは顔を上げた。そこにはカルナの笑顔があった。
「大丈夫け?」
「うん…大丈夫よ」
ダマヤンは言ったが、体のふしぶしが痛かった。船から放り出されるときにあちこちぶつけたせいに違いない。
「ほんとけ? ダ…マヤン?」
カルナはその名を呼んだ。その音はカルナの心に暖かい温度で響いた。
「ほんとよ…ええ、なんともないわ! カルナ!」
ダマヤンは少し無理をしてありったけの笑顔を作り、その名を呼んでみた。ダマヤンの心にその音が響くと、ダマヤンにいずこからともなく力が湧いてきて、体の痛みが消えていった。不可思議なことだ!
カルナはダマヤンの笑顔を見ると、嬉しくてたまらなくなった。それになんだかお腹のあたりがくすぐったい感じがした。ダマヤンも同じ気持ちになった。そこでふたりはくすくす笑い出し、やがてどうにもたまらなくなり身もだえして笑った。
そのときふたりは互いの顔の下の紅い光に気づいた。ダマヤンははっとした。
(石!)
ダマヤンは胸元を見た。バクティの牛黄が、透明な紅い光を放っていた。
(よかった、はずれなかったんだ!)
ダマヤンはほっとした。
カルナは始めて見るそれにしばし見惚れた。
(ここに、バクティが住んでる!)
カルナは確信した。その光に、太陽や空や雪山を見たときに感じるのと同じもの--我々の言葉で言えば美であろうか--をタパスによって見たので。紅い光はやがて消えていった。
馬のいななく声とともにザザッという砂がこすれる音がした。カルナとダマヤンが振り向くと、八騎の女騎兵が馬を躍らせる姿があった。騎兵たちの中心にいたのは、黒髪を編み巻き、銀のティアラを頂き、星のような眼を輝かせるひとりの女偉丈夫。いかさま世の常の者にないがそれもそのはず、その名も高きカリンガ王チャビリーその人であるのだから。
「少年、私はカリンガ王チャビリーである。その少女と石に用がある。下がれ」
チャビリーがそう言うと、カルナはダマヤンをおのれの背中に隠すようにして身構えた。
(虎ちゃん!?)
チャビリーの猛々しく誇り高いタパスにカルナはけおされそうになった。チャビリーのタパスは雪山で何度か出会った森の王者のそれに酷似していたからだ。
「やだ!」
それでもカルナは力強くそう呼ばわった。チャビリーはカルナの姿を見て、
(裸形…ニガンタの徒か?)
と思った。ニガンタと呼ばれるヨーガ行者の一派は空衣派とも呼ばれ、服飾のたぐいをいっさいまとわず激しい苦行を行うことで知られる。カルナがアグニ・シッディを発現して腰巻を燃やしてしまったことなどチャビリーが知るはずもない。
ともかくチャビリーはこの少年がヨーギンであると察すると、馬を降りて歩み出た。
「私と戦うか、少年。たいした勇気だが、命は大事にするものだ」
そこまで言ったとき、チャビリーのタパスをいかずちが駆け抜けた。何ごとかと振り向けば、白髪白髭の遍歴行者と、鷹さながらに立派な修行者とが傍らに立っている。これぞ聖仙アンギラーサ・マヌーとアスラダッタ派の麒麟児ウパティッサに他ならない。
(こういう奇遇もあるものか)
チャビリーは笑った。
「バガヴァン(先生)、お変わりなく」
チャビリーはマヌーに向かって合掌した。チャビリーガールズたちも馬を降り、膝をついて合掌した。マヌーは合掌を返すと、笑って次のように言った。
「相変わらず猛々しいの、チャビリー。わしのもとを去っても、シッディの修行は怠っておらんようじゃな。煩悩を吹き消す修行は、進んどらんようじゃがの」
(老いてなお盛んなことだ)
チャビリーはマヌーの説教には耳を貸さなかったが、マヌーのタパスをそっと覗いてみて、その豊穣の大地のような力強さに半ばあきれながら笑った。
それからマヌーは続けて次のことを言った。
「さてチャビリー、おぬしがその少年と戦うなら、タパス祭りの余興としてはおもしろいが、いかにおぬしでもその怪童には勝てまいよ。やめておくがええ。なにしろそのカルナは、いままさにタパス祭りでこのウパティッサを破って優勝しただけでなく、なによりタタガット・ダスーのたったひとりの弟子じゃからな」
「なんですと?」
チャビリーはウパティッサと呼ばれた男と視線を合わせた。ウパティッサは朝の散歩で知り合いに出会ったかのように、静かに合掌した。
(この男…)
チャビリーにはにわかには信じがたかった。この早朝の太陽さながらに澄んだ光を放つタパスを持つ男に、こんな幼い子供がタパス比べをして打ち勝つなどということが。
「タタガット・ダスージーか」
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu