如意牛バクティ
カルナはおそらく生まれて初めて照れるという経験をしながらも、観衆に両手を振って元気よく応えながら、自分の席についた。くしくもウパティッサの左隣であった。
ウパティッサは次のように考えていた。
(みなの心をここまで捉えたのは彼がダスージーの弟子だからではない。彼のタパスのまばゆい光がみなにも見えたので、それで歓喜したのだ。やはり私のかなう相手ではないかな)
と。『雪山、カルナ、ダスー門下』としてカルナの出場登録をした張本人のマヌーはといえば、ただ座って楽しげに笑っていた。このようなことになるのは知っていたに違いなかった。
ほら貝が吹かれて、僧侶たちが綿布を樽の水に浸してヨーギン、ヨーギニーたちの背中に貼りつけた。ガンゴ河のみなもとの水の凍るような冷たさを知っているカルナには、パトナガルのガンゴの水はほとんどお湯のように感ぜられた。
「はじめっ」
と僧侶が合図する。カルナはこの声を聞くと、
「いっくぞー」
という掛け声をかけて口を結び指を開いて両手をぴんと伸ばし空に突き上げた。宇宙の果てにまでおのれのタパスを届かせてみせるとでもいうようであった。たちまちカルナの背中からシューッという音とともに水蒸気が立ち昇った。諸人が何事かとカルナを見れば、すっかり乾いた綿布が風に吹かれてカルナの背中から舞い飛んだ。そこで僧侶たちは眼を丸くしながら急いで次の綿布を濡らしてカルナに貼りつけなければならなかった。
そのときパトナガルからほど近い空の中で、バクティの牛黄が紅い光を放ったとき、ダマヤンは飛行船のガラス窓から月光の当たる雲をぼんやりと眺めていた。ダマヤンは気づいて胸元を見た。
(光ってる!)
そう思ったときには、もう光は消えていた。ほんの一瞬のことだったのだ。まるで何かがバクティの牛黄に当たり、そのまま空の果てへと突き抜けていったかのようだった。
ダマヤンはバクティの牛黄をさわってみた。暖かかった。陽光に当てた石のような暖かさだった。するとダマヤンの心に景色が見えた。雪山の峰々、抜けるような青空、地表の花々、滑空する鳥たち、跳ね回る鹿たち、それから、空を飛ぶ青黒い牝牛と、その牛と一緒に空を駆けて遊ぶ、満面の笑みを浮かべた、青黒い肌の、瞳輝く男の子…
(あは!)
ダマヤンは思わず笑った。その男の子の天真爛漫な笑顔と、力に溢れた飛翔に、心の底から湧き上がる喜びを感じたので。その喜びは自分が囚われの身であることをすっかり忘れさせ、ダマヤンのタパスを開放させた。
そのとき、カルナの心にいずこからともなく景色が入ってきた。狭い木張りの部屋、雲の見えるガラス窓、そして長い髪を束ねた青黒い肌の女の子の、嬉しそうな笑顔…その胸にある、丸く紅い石と、そこに描かれた牝牛の顔…
カルナは背中に貼りつけられた綿布のことなど忘れてしまった。その女の子の笑顔から発せられる素晴らしい力に魅了されてしまったので。空を見上げた。そこにその女の子の、喜びに満ちた姿があった。そのとき、女の子と眼が合った。
ダマヤンにも、空を飛ぶ男の子がこちらを見るのが見えた。眼が合ったとき、ダマヤンとカルナは、次のような、まったく同じことを考えた。
(ああ、この子は太陽みたいだ)
と。ふたりは互いにうっとりと見惚れるばかりであった。
如意牛バクティ 第九回 ダマヤン、アレックス・カニンガム卿を糾弾しチャビリーガールズ空に戦うのこと
コツコツ、という、扉をノックする音に、ダマヤンはその素晴らしい男の子の景色を打ち消された。
鍵穴が回る音がして、扉が開くと、あの男、アレックス・カニンガムが入ってきた。
「ダマヤン・バーイー、気分はどうかな」
そう言って椅子に座った。ダマヤンにどんな答えもあるはずがなかった。窓際に立ったまま黙っていた。
「さて、そろそろ教えてくれないかね。如意牛を呼び出すには、どうしたらいいんだね? 呪文かなにかあるんだろう? それとも火であぶるとか、決まった日に太陽や月の光を当てるとか? さあ、私たちと一緒に如意牛を呼び出して、願いをかなえてもらおうじゃないか。バラタスタンの人々を未来永劫幸せにしてください、とね」
ダマヤンはアレックスに向き直った。この男が人々の幸せを願っているのではないことは、ダマヤンには容易に了解された。ダマヤンはヨーガの技術も知らず鍛錬もしていないから、アレックスのタパスをはっきりと見ることはできない。しかしもって生まれた感性で、感じることはできた。この男の、得体の知れぬ、背筋がぞくぞくするような憎悪を。
「言ったはずです。私が母から聞いたのは、この石が私を守ってくれるということだけです」
「あなたが本当に困ったとき、本当に助けてほしいと願ったとき、バクティという牛がこの石から現れて、あなたを助けてくれるでしょう」
ダマヤンはまた母の声を思い出していた。
(このことだけは言うものですか。これが本当のことであってもなくっても)
と決意を新たにした。
アレックスは気づいていた。ダマヤンが本当のことを決して言うまいと決意していることを。そこで椅子から立ち上がって窓際のダマヤンに近づくと、次のことを言った。
「ダマヤン・バーイー、よく聞くんだ。この船は明日にはアンガのフォート・ビリーに着く。フォート・ビリーというのは私たちの会社の本社基地でね。そこにはウィリアム総督という方がいて私たちを待っているんだ。フォート・ビリーに着いたら私は君を総督に引き渡さなければならない。それが職務でね」
それから身をかがめると、ダマヤンの耳にささやくように言った。
「総督は気が短い方でね。その上バラタスタンの人々を牛かなにかのように思っている。君が如意牛の呼び出し方を教えないというなら、どんな方法でも使うだろうよ。そう、どんな方法でもね」
ダマヤンの心には恐怖よりも先に怒りの炎が現れた。アレックスをきっと睨み、次のことを言った。
「あなたは卑怯者です。考古学の調査と言ってみたり、バラタスタンの人々の幸せのためと言ってみたり、あげくに拷問にかけると脅してみたり、どんな方法を使ってでも自分の願いを叶えたいのは、あなた自身でしょう。望みを叶えたいならそのために努力をなさい。あなたは人を騙したり、利用したりすることしか考えていない。なぜ自分自身の本当の力でそれを成し遂げようとしないのです? 私にはわかります。あなたは自分の力を信じず、他人の誠実さを信じないからです。そうする勇気のない、あなたは臆病な人なのです」
その言葉はわずか十三歳の女の子のものとはとても思えなかった。それでアレックスにしても子供に対する態度ではなくなった。
「なにい!」
発作的にダマヤンの胸倉をつかんでいた。ダマヤンはその手をぱんっと叩いて振り払ってしまうと、次のことを言った。
「あなたが私に何をしようとも、この石のことはおろか、私についてのどんなことも話させることはできませんから、殴るなり、拷問にかけるなり、ご随意に。もっとも、自然の神さまはあなたの卑怯さと弱々しい力とをお嘆きになるでしょうけど」
作品名:如意牛バクティ 作家名:RamaneyyaAsu