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みやこたまち
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アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏

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 時々とっても抽象的な品物を商っていて、そんなものにもきちんと値段がついていて、だけどそれは言い値で、時価らしく。私はそんな時には、きちんとしたサングラスを、これは以前のフリマで手に入れた「世の中が透けて見えるようになれる眼鏡」で、3500円もした、クリサセマァームっていう彫金が悪戯な伊達眼鏡だったのだけれど、使用方法をしたためた、よく昔の粉薬を三角につつんであったペナペナの紙をなくしてしまったので、よく覚えてはいないのだけれど、たしか、眼鏡をかけて夏至南天の太陽を凝視して、正常な意味合での視力をなくしたら、世の中が透けてみるようになるとか、ならないとか、という逸品、をおもむろにかけて、店主と談判しているの。胡散臭いとは思ったけれど、そのときはこれを買った自分の高揚感に救われたというところがあったのよ。ストレスを買いもので発散するタイプなのね、私はわりと。お金に困ってはいないのだけど、いつか売る方に回ってみたいと考えています。宿の呼び物になるといいかな、なんてアイデアを暖めています。いまのところ買う方ばかりで、今日もたまたまこの界隈に、出かける用事ができたから、勿怪の幸い。この身尽神社にやってきた。財布には2万円くらい入っている。具体的には、そうだな「いまの自分を全肯定できる半生を認めた日記」あたりを狙っています。今、今までの私を振り返ってみても、今が今である必然性がまるでないような気がするし、今の自分である意味が分からないというか、そういう気持ち。手取り早く「産みの親」とか、そういうものでもよかったけど、ちょっと重たくなるかな、と思うから、とりあえずは、思い出を、いくつか見繕うつもり。さて、今日はどんな店が出ているのかな。

 辺鄙なところだ、と思う。国道はまばゆく輝き、これで蝉でも鳴いていれば、確実に「盛夏」なのだが、残念ながら、思い出の夏にはほど遠い。花粉も黄砂も微塵も無く、寒さも感じず紅葉も見られない。大気がほんの少しだけ粘度を増しているせいで、おそろしく分厚いレンズめいた効果を、斜めの日射に対して施しているのだろう。だからこそ、国道の濃紺に鮮やかな黄色の速度制限40がわずかに浮かび上がっているのも、路肩の全ての道路標識が道路中央に15度ほど倒れこんでいるのも、路面そのものが息づいているかのように律動しているのも、さらに、全てのものに影が無いことも、うなずけるというものだ。一直線の国道ですら、その先が揺らめきのなかに消えている。ましてや、裏路地をや。国道からはずれ、高く湿ったコンクリートブロックが鋭角に区切りとった林の斜面を、階段がずらずらと続く。手すりはまばゆい空色で、握るのがためらわれるほど細かった。斜面を無視して、直立する杉のまにまに落ちる日光。杉の葉の無数の隙間から均等に、そして過剰に落ちかかるその日差しは、まるでトンボのめがねのように世界を無限に見せた。そしてこの林の下に、目的地である「身尽神社」がある。


 青いビニールシートの四隅をおさえる誂え向きの石が五つ見付かった。ひとつは予備だ。そう思った途端にこのひとつの石を思い切り投げ捨てたくなり困った。他の四つはきちんとビニールシートの四角に落ち着いていて、無駄な凸凹もなく黙っているというのに、この残ってしまったいびつなやつは、そこいらに放っておいてもいらいらと目ざわりだし、シートの上におくと、他の品物まで無意味にみえてきてしまう。手の中で弄ぶには大きいし、不定型な突起と数種類の石が混じって橙や青白い粉が手について邪魔だ。まだまだナップザックには陳列しなければならない品物がつまっている。そろそろ客も集まり始める時間だというのに、目玉となるお買い得品を、まだ出していないのだが、片手に余る石をもったままでは、取り出すこともままならない。なぜだ。なぜ五つ見つけてしまったのか。だいたいなぜ、この場所に五つの石があったのかなどと勘ぐりたくもなる。結果的にこの余った石が、何かを暗示していないとも限らないではないか。改めてしげしてと石を見つめる。ふん。ただの石だ。だが不思議と最初に売れたのがこの石だった。
 吹き渡る風が心地よく、一つの商いが成立した達成感に、つい顔が綻びて、ああ、こんなに良い気分なのはどれくらいぶりだろう、そう思う自分は、今ここにいるのではなく、どれくらいぶりなのかと思った途端に広がるこれまで暮らしてきた時空、そして暮らすはずだった時空の全てに包括された地点に静かに座っていて、その座っている場所こそが、この青いビニールシート上に収斂していた。目の前を次々に通り過ぎる人々は、いつか読んだボール紙細工のよう目の前でゼロとなり影が行過ぎていくばかりだ。


 脳は四肢を羨み拗ねて執拗に思念空間の優位を想起せしむる、脳はいわゆる灰色の豆腐の如き期間を指すので実は脳という言葉は不正確でむしろ精神と肉体、心と体、物質と思念という二項対比をつくり出す源泉としての脳だけを大切にしたい。無論、この世がある。他にもあるかもしれぬが分からないものは書けない。あるかもしれない、などと考えるのは二項対比を正当化する嫉妬深い脳の策略なのだから。 脳は脳を定位できないくせに言葉を駆使すれば規制を受ける。またこの世の有り様が絶対的な限界となる。科学技術が世界(この世)を解明するたびに意識が変容を遂げ、人類は進化し、より分かりあえるだと世界の解明を目論む欲望はいつしか欲望を開発する欲望へと変化しさほど好きでもないものに付加価値を見出すことを文明とよぶなどという方向へ拍車をかけると滑りはよくなるが落ち着く先は存外つまらぬところだ。教訓。考えるな。感じろ。では一杯30円。(と灰色でしわくちゃの豆腐じみたものが、それ専用のボウルに水を張った中でプカプカ浮いていた)
「何かお探しのものがありますか」
「いえ、ここではないどこかにあるようです」
「それではいづれ」
「ごきげんよう」
 そこかしこで聞こえるそんな挨拶も、今ここではなく、過去でも未来でもないところから響いてくるのだが、案外、客など一人もおらず、ただいると思っているだけなのだったのかもしれない。
「死んだ人を探しています」
「あなたの心の中に永遠に生き続けていますよ」
「私の命は限りがありますのに」
「あなたも誰かの心の中に永遠の命を受ければいいのですよ」
「そこで、あの人に会えますか」
「いえ。ただ思い続けることはできるでしょう」
 たくさんの猫が、直線ではないが等間隔ですましている。私はポケットの中の蟹を取り出し、周辺に撒いてみる。
「おいしそう」
 ああ、猫がしゃべった。私は、何度も何度も小さな蟹をすくいあげ、無数の猫にむけてばら撒いた。
「お前、何やってる!」
 ガードマンがやってきて、私は襟首を掴まれていた。私の行為は、無届での物品頒布という罪状で、法に触れるのだという。
「私は、妻に逃げられた月給24万円で、家賃7万3千円の部屋に住むのサラリーマンなんです」