アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏
9.川原へ
何のことはない。主をなくした小船に抜き手を切って追いすがり、ずぶぬれのまま、川下を凝視。流れに掉さすこともなく、難所めいた瀬もないまま、頭上の崖が少々低くなり始めるころ、ふと気づく。
「何だ。この川かよ」
荒唐無稽傍若無人勇気凛々呉越同舟。世の常識からいっそ、ああいっそのこと調子外れてアウトロー。空を屋根とし地を床として、風の向くまま気の向くまま、金がなくなりゃ手段を選ばず、必要なのは生きながらえることだけだと覚悟を決めて挑んだはずの、「支配からの卒業」それすなわち住所不定無職への配置換えも辞さぬ意気。橋を焼いたのは俺自身だ、との矜持。それが、どこでどう狂うたか、いや狂わなんだのか、電車を下りて観光列車にまで乗って、当てずっぽうに乗り換えて、同道二人となった後、バスにも乗った、歩きもした一日の行程は。なんてこたない、すべて同じ川の上へ移動しただけのことだったとは……
女をふみにじり、老人を殴り倒しただけで、舞い戻っちまったよ。こんなら素直に中央駅から故郷へ戻る特急列車へ乗ればよかった。つまらない。ああつまらない。なんて、反省やら愚痴やら、そんな人の気持ちは昨日早朝燃えないゴミに出しちまった悲しみに、いいだろう。それが俺の運命ならば、しばらくはつきあってみてやるのも悪くは無い。あの女がどちらへ戻るか、見張るくらいの暇はある。無論、そんな他人ごとにかまっちゃいられないから、女が戻った暁には、その女との一夜を、千一夜風に脚色して旦那の御伽と洒落めたしてやらんでもないと腕を組む。さすがに、全く同じ駅の河岸で降臨するのも、あんまりなので、心持下流へ。川原に続く菜園と、ダンボール、ベニア、トタン長屋の途切れる辺りは、どうやら湿地帯だが、臭くて汚い連中とやりあうのはまっぴらご免と、ねっちゃねっちゃと舞い戻りたる人の世へ。
「さて、とりあえず、アウトドアグッズでも買い揃えるか」
川原を離れると、急角度にそびえる鉄階段にとりついた。これで10メートル程の高さのコンクリート護岸を上る。階段は全てが錆びていてところどころ、腐食し穴が開いている。踏み板も錆びて丸まっていたり、薄くなっていたりする。手すりもブラブラだ。あと数十メートル下れば、アスファルトの取り付け道路があることは知っている。だがそこに行く途中にある、むやみと広い川原を横切るのがたまらなく嫌なだけだ。私がそこに「賽の河原」と名づけていることは誰も知らない。失業している時、その場所へ行って寝ころぶと、川原と空しか見えなくなる。忙しい川のせせらぎが遠くから聞こえてきて、それよりも乾いた風の音ばかりが耳元で渦巻いて、なぜだかいつでも茶色くなったススキが二三本揺れている感じがして、午前も午後も、早朝も黄昏時も、そこだけはいつも、午後の4時25分みたいな太陽の光の色をしている。そこにいると、あと2分ちょっとで義務を果たさねばならないのだ、という焦燥に駆ら、でもそんな義務はぶっちぎるんだ、という罪悪感に苛まれるのだ。汗びっしょりの毛布に意地でくるまって、家を出なければならない刻限まであと2分ちょっとだという感覚。つまり、全く落ち着かない場所なのだが、私は失業しているとき、実によくそこに行って、そして、はっきりと覚醒したままうなされ続けていたものだ。階段を上り終えると、申し訳程度の松林が川を隠して、がけ下にコンクリーとの長い格子をこしらえて確保した人口の土地に住まう人々の家と、生活道路をはさんだ平屋の長屋が軒を連ねている。道は川から緩やかに上っていく。
私は少し遅い電車に乗った。未だ出勤すると決めたわけでは無い、と心の中で何度も繰り返していた。妻が無断外泊した。簡単に言えばただそれでだけのことだ。昨夜来、私はたったこれだけの事を、鉛の布団のように引っかぶって、ああでもない、こうでもない、と思い悩み、極論をぶち上げて開き直ってみたりしていたのだ。いつもとは少しちがう日差しの中を、いつも通りの律動を刻んで走る電車に座っていると、思い起こした途端に息苦しくなる日常というやつが、安らぎを与えてくれた。日常は強固だ。それは侵されない。この社会で行き続ける惰性が、日常を強化し、その鋼のレール上を、日常は加速していく。気づいた時には、もう止めることも、下りることも、乗り換えることもかなわぬ速度となって、キリキリと進行するのみだ。妻は、この速度を恐れなかったのだろうか。恐れることなく無事に、降りることが出来たのだろうか妻の日常とは、一体、どのようだったのだろうか。結婚し同居する。同じ目的に向かって生きる、すなわち同じ日常に乗り合わせること。そう思っていたが、結婚以前、我々は別の路線を走っていたはずだ。二つの路線は、ある駅で合流した。だが、昨夜レールは再び分岐したのだ。ごく自然に前よりの四両が切り離され、支線へと全く何の抵抗もなく別路線に入っていったのだ。
普段と違う電車内は、通勤時の殺伐とした沈黙は希薄で、人と人との間から、そこそこ陽射しもあって暖かい。しかし私にはそんな緩い車内空間が物足りない気がするのだった。目的を持って乗ったのならば、こんなゆとりの時間も悪くは無いだろうし、目的無く乗ることに慣れた者なら、周囲の人や風景にぼんやりと心を漂わせることもできただろう。しかし私は違った。私は無目的に生きることができない性分だ。無計画さと無目的さとは別なのだ。私は今朝、無計画にこの電車に乗った。一応そのまま職場へ行っても何とかなる程度の身なりをしている。だが、社員証を忘れていることに気づいた、先程の分岐の駅から、職場へ出かける気分はなくなっている。では、その時から私の道行きは無目的となったのだろうか。いや、私は自分が何をしているのか分からないで行動しているという態度を受け入れることはできない。さしあたり、あの家にはいられなかった。そう、まず家を出ることから始めなければならなかったのだ。なぜならば、今日は……休日ではないのだから。そうだ。休日でもないのにいつまでも部屋にいるのは、死んでいるのと同じだ。いやそうではない。死んでいるのと同じではなく、死よりも悪い。なぜならば、自分は生きているからだ。生きている人間が死んだような態でいるのは、罪である。では、仕事がある身で無職のように振舞うことは、悪ではないのか私にとって仕事とは人生そのものなのか。
作品名:アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏 作家名:みやこたまち