愛を抱いて 31
私は、これ以上彼女を苦しめるわけにはいかないと、思い始めていた。
「御免なさい…。」
沈黙の果てに、彼女はそう呟いた。
それは私にとって、何より辛い言葉だった。
私は静かに失恋という現実を受け止めようとしていた。
「御免ね、鉄兵君。」
世樹子は不意に顔をあげた。
彼女は泣いてはいなかった。
「黙っておこうと思ったけど、やっぱり本当の事を話すわ。
実は…、私が鉄兵君に近づいたのは、香織ちゃんの復讐のためだったのよ…。」
「え…?」
思いも寄らぬ世樹子の言葉に、私は自分を失った。
「あなたが香織ちゃんと付き合ってた時から、あなたが香織ちゃんを本当に好きでない事は、誰の眼にも明らかだったわ。
香織ちゃんに随分酷い事をしたわ…、鉄兵君は。
鉄兵君が酷い人だとは充分解ってるけど、でも許してしまうと香織ちゃんは云ったわ。
いいえ…、香織ちゃんは、付き合ってるからと言って、鉄兵君に自分を好きになる事を強制するのは間違いだと云ったわ。
許す許さないの問題ではないと云ったわ…。
でも、私はどうしても許せなかった。
そして私、復讐する事に決めたの。
あなたに…。
あなたが私を本当に好きになったら、…あなたを捨てようと思ってたのよ…。
あなたを傷つけるために。」
世樹子は淡々と語った。
私はあまりにも無防備であったために、衝撃すら感じる事ができなかった。
ただ、全身の血がどこかへ消えて行くのが解った。
私は蒼い顔をして、茫然と彼女を見つめていた。
世樹子はもうそれ以上、口を開かなかった。
再び沈黙が始まった。
やがてゆっくりと、私は自分を取り戻し始めた。
「復讐…。」
彼女の云ったその言葉が、頭の中で繰り返されていた。
「復讐…。」
最早その言葉に、恐怖は感じなかった。
私は全ての報いを受けていた。
ただ、自分の犯した罪に対する罰を、全身に浴びていた。
それを拒もうとはしなかった。
それ故、恐怖はなかった。
私は静かに眼を閉じた。
それまで哀しみに満ちていた心は、いつしか晴れやかに澄み渡っていた。
世樹子に初めて逢った、「高月庵」での事を想い出していた。
彼女は白い三角巾に白いエプロンをしていた。
香織の隣に現れた彼女に、私は既に心を引かれていた。
彼女と過ごした時間が、心の中に順を追って甦って行った。
同窓会の夜、香織の鍵を持って私の部屋を訪れ、いきなり泣き出した彼女を飯野荘へ送って行った事。
隅田川花火大会を観に行って、皆とはぐれてしまい、二人きりになった事。
六本木のディスコで偶然逢い、チークを踊った事。
オート・テニスをしようと伊勢丹へ行き、定休日だった時の事。
サン・プラの前で、1つの毛布にくるまって二人で寝た事。
新宿の雨の夜。
授業をサボって、豊島園へ皆で行った事。
東京観光専門学校との合コン。
二人でコタツを抱いて帰った時の事。
後楽園遊園地。
私は眼を閉じたまま、静かに回想に耽っていた。
〈六二、復讐〉
完膚なきまでに打ちのめされ、まるでボロ着れの様に
彼は、世樹子の前に座っていた ─
優れた洞察力で、相手の心の動きを見抜き、
彼はいつも自信に溢れて、その言動は周囲の者を魅了した ─
酒と女と、罪と復讐 ─
もはや希望は絶えたのか?
果たして彼は、甦る事ができるのか ─
┌──────────────────────────┐
│ │
│ その時、電車がやって来た。 │
│ 「やった!」 │
│ 我々は元気を取り戻した。 │
│ 「まだ電車が走ってるって事は、そんなに長い時間 │
│ 迷ってたわけでもないんだ。」 │
│ 我々は、希望の電車を見送った。 │
│ │
└──────────────────────────┘
彼等は何度も希望の電車を見送っては、
現実に打ちひしがれて来たのだ ─
次号、いよいよ準最終回!
63. 鉄兵の様に ~中野ファミリー解散~
私は眼を閉じたまま、静かに回想に耽っていた。
心は穏やかだった。
想い出の中の彼女は、いつも優しかった。
そして私は気がついたのだ。
彼女のあの優しさは、造り物なんかではないと…。
私は既に、女の復讐に対する免疫を持っていた。
愛を知って、私は本当に人を信じる事のできる人間に成長していた。
彼女の優しさは、偽りではなかった…。
大いなる絶望の淵で、私は気がついた。
そして、勝負に出ようと思った。
ただ、敗れた時の残酷さを考えると、ぞっとした。
考えていては、迷い始めると思った。
私は勝負に出た。
「…嘘だ。」
私は微笑みながら云った。
「それは嘘だ…。
愕きたいけど、俺には解ってしまうよ。
君が好きだから…。
でも、どうして俺なんかをフるのに、そんな嘘までつくんだい?」
最大の賭けであった。
世樹子は表情を変えなかった。
私は優しく彼女を見つめた。
彼女は冷めきった視線を下げて、テーブルの端の方を視ていた。
ふと彼女の唇が歪んで、何か言葉を云うのかと思った瞬間、彼女の表情が大きく崩れた。
その瞳に突然、涙が溢れた。
世樹子はテーブルに両肘を突いたかと思うと、その中に顔を埋め、声を上げて泣き出した。
「…私、どうしても鉄兵君が、好きなのよ…。
…でも、別れなきゃ、いけないのよ…。
…でも、好きなのよ…。」
私は勝った。
全身の緊張を解きながら、いつの間にかテーブルの端にそっとコーヒー・カップが置かれているのを知った。
泣いている世樹子を視て、もっと早い内に、彼女の演技に気づいても良かったと思った。
勧銀の前から電話を入れた後ぐらいには、解っても良いはずだった。
世樹子は前から、すぐに泣く女であった。
別れ話のシーンで、彼女が涙を見せないはずは、なかった。
私は煙草に火を点けながら、そんな事を考えていた。
世樹子も午後の授業には出ると云い、喫茶店を出ると二人で中野駅のホームへ向かった。
「結局、香織については、どうなってるんだい?」
電車を待っている間に、私は訊いた。
「…その事は、もういいのよ。」
世樹子は遠くを見つめながら答えた。
風もなく、穏やかで暖かな一日だった。
香織と世樹子の引っ越しは、中野ファミリーに決定的な動揺を与えた。
イヴの夜に予定されていたクリスマス・パーティーは、ほぼ中止になる事を皆、承知していた。
それより中野ファミリーの存続自体、危うくなった事を、全員が胸に抱いたはずだった。
私は語学の試験に追われていた。
12月17日の夜、私は翌日に控えた英語Bの試験のための勉強を、部屋でしていた。
明日の試験が終われば、めでたく冬休みという夜であった。
そこへ、柳沢がヒロシと一緒に帰って来た。
「鉄兵、久保田の引っ越し先が解ったぜ。
池袋だってさ…。」
私の部屋に入って来るなり、柳沢が云った。