愛を抱いて 28
明日の午前に語学さえ、なきゃあなぁ…。」
我々はゾロゾロと中野駅の方へ歩いた。
「ねえ、クリスマスは当然、三栄荘でパーティーやるんでしょう?」
ヒロ子が云った。
「無論、やらせてもらいます。」
柳沢は少々酔っ払っている様だった。
「あら、柳沢君、クリスマスまでこっちに居るの?」
フー子が云った。
「何で、俺が居ないんだよ。
盛大に仮装パーティーでもやりたいな…。」
「フー子ちゃんこそ、群馬にさっさと帰っちゃ…。」
ドロは途中で言葉を切った。
「クリスマスなんてえらく気が早いな。
まだ今日、12月になったばかりだぜ。」
私は云った。
「違うわ。
もう12月になっちゃったのよ。
クリスマスまで、すぐじゃない。」
「もう幾つ寝ると、クリ○リス…。」
柳沢に女達の顰蹙の眼が浴びせられた。
改札の前で3人を見送った後、我々は三栄荘へ戻って呑み直した。
皆、相変わらずの調子で喋り、グラスを口へ運んだ。
ヒロシは眠そうな眼をトロンとさせて、それでも必死に起きていた。
柳沢は完全に酔った頭で時々妙な事を口走り、冷たい眼差しを受けていた。
フー子は香織と世樹子の中を取った程の強気振りを発揮して、目もとに悪戯っぽい笑みを浮かべ軽やかな口を動かした。
世樹子はこの3人だけになると、穏やかな印象を与えた。
そして彼女の笑顔は、どこか懐かしい感じがした。
香織が云った。
「私さ、今日でこのファミリーとやらを、抜けさせてもらおうと思ってるのよ。」
会話が止まり、皆は香織に注目した。
「え…?
何だい、藪から棒に…。」
柳沢の言葉を遮る様に、香織は続けた。
「本日を以て、久保田香織は中野ファミリーを脱退致します…。」
「香織ちゃん、どうしたのよ…?
突然…、冗談でしょ…?」
世樹子も初めてこの事を聴いたらしかった。
「本気よ。
この処、劇団の方も忙しくなっちゃったし、急で悪いとは思うけど、生活を簡素にしたいのよ。」
「生活態度を改めようってのは、良い心掛けだ。」
ヒロシは赤い眼をしていた。
「ちょっと待ちなさいよ、香織。
忙しいのは解るけど、別に抜けなくってもいいんじゃない?」
フー子は怪しむ様な表情で云った。
「クリスマス・パーティーには、参加するわよね…?」
世樹子が縋る様に云った。
「いいえ。
もうこのアパートには…、三栄荘には来ないつもりよ。」
そう云って香織は、全員の心の中に沸き上がった不安の文末に、終止符を打った。
皆は黙り込んでしまった。
香織もそれ以上口を開かず、代わりにそっとグラスを口へ充てた。
私は、先程ドロ達を送って行った時、空に全然星が見えなかった事を考えていた。
静かになった部屋の中に、やがて雨の音が聴こえて来た。
〈五六、コンサート〉
57. 待ち合わせまで
「まあ、抜けるのは自由だけど、厭味な云い方は止せよな。」
最初に口を開いたのは、柳沢だった。
「私、厭味なんて云ってないけど…。」
香織が云った。
私は窓を開けた。
雨は思ったより激しく降っていた。
「やだ…、帰れなくなったら、どうしましょ。」
香織が云った。
「鉄兵君と柳沢君、傘何本持ってる?」
世樹子が訊いた。
「俺、2本持ってるぜ。
柳沢も確か、2本持ってたよな。」
「じゃ、1人1本ずつ借りて行っても、まだ1本余るわね。」
フー子が云った。
「おいおい、1本だけ余って、俺と柳沢は明日、相合い傘をするのかい?」
「大丈夫、朝には止むかもよ。」
「俺は明日、どうすりゃ良いんだよ?」
ヒロシが云った。
次の日、私は午前中ずっと眠っていた。
眼を醒ますと、世樹子が居た。
「ゆうべは傘をありがとう。
柳沢君にも、お礼を云っといてね。」
ドアのそばに2本の傘が綺麗に畳んで置かれていた。
窓の明るさで、雨は上がり、陽が射しているのが解った。
私は煙草に火を点けながら云った。
「腹が空いたな…。」
「何か作るわね。」
そう云って、世樹子は立ち上がった。
私はぼんやりと昨夜の事を思い返していた。
やはり、香織の言葉が気になった。
私が歯痛にさいなまれた日から後、香織は私に色々と気を巡らし、また私の心を戻させる思索を試みては、何かと私の部屋へやって来た。
しかし、私の反応は冷酷なものであった。
彼女が遂に私への思索を諦めた事は確実だった。
そして、昨夜の6人の中で私と世樹子の関係を知らないのは、彼女ただ1人であった。
柳沢もヒロシも、既に出かけてしまった後の様だった。
私は少し痛む頭を押さえながら、柳沢とヒロシが大変酒に強くなった事を認識した。
世樹子の昼食を食べた後、二人で出かけた。
私は歩くのが辛いと云い、西武新宿線に乗って、高田馬場で山手線に乗り換えた。
新宿で電車を待っている間に、私は云った。
「香織、何か云ってたかい?」
「別に何も云ってないわよ。」
世樹子の口調は普段と変わらなかった。
「そう…。
もしかして彼女、俺達の事を知ってしまってるんじゃないだろうか…?」
「それは、ないんじゃない?」
「あのさ…、何なら…、俺から香織に話そうか?
俺達の事…。」
「いいわ。
…鉄兵君は何も話さなくていいの。
心配しないで。」
電車がホームに入って来た。
代々木で世樹子と別れ、私は大学へ向かった。
語学と一般教養には年内に試験を済ませる科目が多かったので、12月に入るとキャンパスは賑わった。
4限目の授業に出席した後、私と淳一はサークルの溜まり場へ行った。
溜まり場は満員で、私と淳一はテーブルに腰をかけた。
「こっちに座りなさいよ。」
煙草に火を点けようとした時、美穂の声がした。
手招きされる方へ私は行き、美穂が椅子を半分空けてくれた処へ座った。
淳一は千絵と相席した。
「お前等、好い事やってんな。」
先輩の一人が冷やかしを云った。
「好い事って先輩、こいつ等じゃあねぇ…。」
淳一が云った。
「あら、私達だってあなた等だからこそ、全然気にならないのよ。」
千絵が云った。
「ほぉ…。
あ、痛ぇ、骨盤が…。」
千絵は淳一の肩を思い切り叩いた。
「全く、今年の1年は仲が良過ぎるな…。」
先輩の一人が苦笑いしながら云った。
私は久しぶりに美穂の肩と太股の感触を味わった。
後期が始まってから、彼女と横沢が付き合っている様子はなく、その様な噂も聴かなかった。
ただ一度、後期開始後間もなく、横沢は夏合宿だけでフラれたという噂を耳にした。
美穂と私の同じサークルの一員という関係は支障なく続いていた。
5限目の終わるチャイムが鳴ってしばらくすると、呑みに行く者の募集が始まった。
淳一は行くと云った。
私は世樹子と約束があったので、淳一にそのサインを出した。
「そうか。
お前、独語のノートろくにとってないものな。
ま、頑張って今夜中に写せよ。
俺は真面目に授業に出たから、今夜はゆっくり酒を呑んで来るぜ。」
淳一が云った。
「じゃあ、鉄兵、一緒に帰ろう。」
美穂が云った。