愛を抱いて 28
「あれ、美穂ちゃん、行かないの?」
千絵が振り返って云った。
「だって、ゆうべお母さんから電話があって、今夜もかけるって云ったんだもん…。」
キャンパスを抜けて、正門の処から、サークルの皆は市ヶ谷駅の方へ歩いて行き、私と美穂は飯田橋へ向かった。
淳一の女性からの人気はやはり、絶大なものがあった。
彼の人気は、彼が呑みに行くと云えばサークルの女達が皆その夜のコンパに参加し、そして女達が参加すれば男も皆参加するという現象となって現れた。
「鉄兵、今夜、女の子と約束があるんでしょう?」
桜並木の路を歩きながら、美穂は云った。
「え?
どうしてさ。」
「解るわよ。
あなたがノートを書き写す様な面倒臭い事、するわけないもの。
コピーしちゃうでしょ、普通。
それに、井上君が真面目に授業出てるわけないじゃない。」
「なる程…。」
「誰…?
香織さん?
私の知らない女の子かしら?」
私は夏合宿以降、美穂と私的な会話をしていない事に気づいた。
「香織とは別れたんだよ。」
「…そう。
じゃあ、今夜のは知らない娘ね。」
「いや、君も知ってる。」
「…。
…誰?
あ、無理に教えてくれなくてもいいのよ。」
「世樹子さ…。」
「世樹子さん…。
ふぅん、あの娘…。」
「交際範囲が狭いだろ?
結構、不自由してるんだ。」
飯田橋の駅舎が見えた。
「ねえ、何時に待ち合わせしてるの?」
「7時に新宿。」
「まだ随分あるわね。
サテンへでも寄らない?」
美穂の表情は前期の頃のそれに戻っていた。
「ああ、いいよ。
でも、お母さんの電話は大丈夫なのかい?」
「電話がかかって来るのは8時頃よ。」
二人は神楽坂の方へ歩いた。
「来夢来人」という名の喫茶店で、私と美穂は珈琲を注文した。
「そっか…、世樹子さんか…。
後期になってから、ずっと鉄兵が私に冷たいはずね。」
「君は俺をフッておいて、よくそんな事が云えるな。
夏の金沢は哀しみでいっぱいだった…。」
「あら、いつ私が鉄兵をフッたの?
金沢の事は少し悪かったと思うけど、鉄兵がはっきり決めてないのにホテルを予約しちゃうんだもの。
…御免なさいね。
私のために予約してくれたのに…。」
「もう、いいんだよ。
その事は…。」
私はウェイターとジャンケンをして勝ち、珈琲を1つただにしてもらった。
「ずっと尋ねてみたいと、思ってたんだけど…。」
私は云った。
「君はいつ、俺の事を嫌いになったんだい?
夏休みに、お互い帰省していた間…?」
美穂は珈琲を一口飲んで、またテーブルに置いた。
「鉄兵を嫌いになった事なんて、一度もないわ…。」
「嘘。
じゃあ、どうして…。」
「鉄兵は、女の言葉を信用し過ぎるのよ。」
「え…?」
「私が本当に、鉄兵に香織さんとかがいて、それでも逢ってくれるだけで良い女だと思った?」
なる程と、私は思った。
彼女はかつて私にその様に云った事があった。
しかし、彼女はあの御対面事件を、ずっと許せないでいたのだ。
考えてみれば、当然であった。
あんな事があった後で、呑気に夏合宿に参加した自分に対して、私は苦笑いを禁じ得なかった。
「でも、あなたって、冷たい男ね…。」
私は、今でも彼女は私の事が好きである様な気がした。
ただ、私の心はそれについて、深く探ってみようとはしなかった。
「君は俺に、充分復讐を果たしたさ。」
「何よ、復讐って?」
「いや、夏合宿の後、俺は随分落ち込んでしまった。
君を失った事が、とても辛かった…。」
「ふぅん…、本当かしら…。」
「本当さ。」
「でも、私は、夏合宿の時も後期の間中も、ずっとあなたの事を視てたのよ…。」
「…それが真実なら、君の演技力は完璧だ。
俺には全然見抜けなかった…。」
美穂は有楽町線の方へ歩いて行った。
私は国電のホームへ向かった。
「今日みたいに、また二人きりで逢ってくれるかしら…?」
喫茶店を出た後、彼女はそう云った。
私は「いいよ。」と答えた。
電車はすぐに来た。
時計を視ると、6時半であった。
〈五七、待ち合わせまで〉