愛を抱いて 28
56. コンサート
「君は東京タワーに上った事があるかい?」
次の朝、私は世樹子の焼いたトーストを齧りながら、云った。
「あるわよ。
小学校の時だったかしら…。
…急に、どうしたの?」
「実は俺、東京タワーに上った事、ないんだよね。
前を通った事はあるんだけど、中へ入った事がないんだ。」
「…?
…上ってみたいの?」
「…うん。
一度でいいから、上ってみたい。」
「どうして、今までに行かなかったの?
鉄兵君にしては珍しいわね。」
「だってさ…。
何か恥かしいじゃない。
1人で行くのも勇気が要るし…。」
世樹子は笑った。
「よしよし。
じゃあ、私が連れて行ってあげましょう。」
「本当かい?」
「ええ。
だから牛乳を飲みなさい。」
私は牛乳の入ったコップに手を伸ばした。
想い出の冬は、いつの間にか、そっと我々のそばへ来ていた。
12月1日は「映画の日」で、どこの映画館もその日は半額で入場する事ができた。
中野ファミリーでは当然、映画観賞会が行われる事になっていた。
しかし、私はそれに参加しないつもりだった。
午前10時頃、柳沢が私の部屋に入って来た。
「鉄兵、本当に行かないのか?
今から出かけるけど…。」
「ああ。
云った通り、今日は野暮用があるんだ。」
「夜のコンサートには、ちゃんと出れるんだろうな?」
「勿論。
ちゃんと行くよ。」
「そうか。
じゃあ、俺は行くぞ。」
柳沢は出て行った。
私はゆっくり髭を剃り、支度を整えて外へ出た。
人気のあるロードショーはどこも超満員に違いないので、柳沢と香織と世樹子の3人は、二流館へ行くらしかった。
私は沼袋駅へ行き、新宿方面の電車に乗った。
電車の中で、さて夜までどうやって時間を潰そうかと考えた。
西武新宿駅に到着した。
柳沢達は池袋へ行ってるはずだった。
私は1人ブラブラとコマ劇場の方へ歩いた。
予想された通り、映画館はどこも「只今立見」の看板が出ており、それでいてなお、入口には人が溢れていた。
平日にも拘わらず半額というだけで、これ程の人間が映画館へやって来るという事に、私は愕いていた。
同時に入口で列を作っている彼等が馬鹿に見えた。
(そうまでして観たい映画なら、普通の日に正規の料金を払って観に来れば良い。
あいつ等はいったい何を考えて、あそこに並んでるんだ?)
ただ一つだけ、満員になっていない映画館があった。
私は入場券を買ってそこに入り、「スタッド」という映画を観た。
階段を上って、私は池袋駅の東口に出た。
外はすっかり暗かった。
国電の高架橋に沿って南へしばらく歩くと、右手に「和泉屋ビル」という名の建物があった。
私はそのビルの地階へ下りて行った。
「いらっしゃいませ。
チケットはお持ちですか?」
入口にいた女性が云った。
「持ってない。」
私は答えた。
「鉄兵ちゃん…!」
ヒロシの声がした。
「随分遅かったじゃない。」
「御免…。
うちのメンバー、来てる?」
「ああ。
鉄兵ちゃん以外は皆、揃ってるよ。」
私は奥の控え室へ向かいながら、ヒロシに云った。
「悪かったな。
搬入とか、全然手伝わなくて…。」
「そんな事はいいさ。
それより、鉄兵ちゃん達リハーサルなしで、本当に良かったのかい?」
「心配ないよ。
レベルが基々低いから…。」
バンドのメンバーと簡単な打合せをした後、私は控え室を出て、会場へ入ってみた。
収容人員50名程度の小さなホールは満員で、両端の通路や後ろの壁際には立って観ている者も沢山いた。
私は少し緊張を覚えた。
ホールの中央付近に、柳沢と香織と世樹子の3人はいた。
よく視ると、その3人の後ろにフー子とドロが座っていた。
ノブとヒロ子の顔も見えた。
どうやらその辺りは、東京観光専門学校と明治学院大学で占められている様子だった。
満員になるはずだと私は思った。
ヒロシの大学の彼が所属する音楽サークルに依る定期コンサートは、池袋駅近くの「パモス青年芸術館」を借りて行われた。
そして私は、ヒロシの強い誘いで、そのコンサートに部外者にも拘わらず出演する事になった。
プログラムには、友情出演と書いてあった。
ヒロシは1年生であるが、既にサークルの実力者であった。
コンサートは地下1階のホールで午後7時より開催された。
私の出番はヒロシの次で、午後8時半頃の予定だった。
コンサートに出る事が決まって、私は急遽メンバーを集め、ヒロシの友人にドラムを叩いてもらう事で、何とかバンド演奏の形を整え得た。
ヒロシは澄んだ高い声で唄った。
舞台の袖で彼の横顔を見ながら、私は彼に妬みと後ろめたさを感じていた。
しかし、私はまだ、こんな場所で唄って拍手をもらう事には何の価値もない、と考えていた。
作品を創り上げる事には、多かれ少なかれ、必ず価値は存在した。
ただ、創ったものを伝えようとする時、我々は何度も哀しみに出逢うのであった。
昼間ずっと1人でいたおかげで、私の集中力は研ぎ澄まされていた。
ヒロシの歌声が途切れ、舞台は暗転した。
── 「Last Night」
夢の中の あなたは
僕を 膝に抱き
しなやかな その指で
髪を 撫でてくれた
今 グラスに映ってる
真珠の 指輪を
見つめながら 僕は
そっと 呟く
この手で あなたに触れて
不安な夜を 過ごすより
あなたの 心の中の
想い出で 居たい…
何気ない あなたの
仕草の 中に
優しさの かけらを
いつも 探してた
でも 微笑みの
後ろに 冷たい
かげを感じて また
僕は うつむく
口付けの その後で
煙草を くわえる人だ
黙っていても 瞳に
妖しさが 漂う
震える肩を 抑える
事もできずに あなたは
初めて 小指の真珠
濡らし 泣いたんだ
この手で あなたに触れて
不安な夜を 過ごすより
あなたの 心の中の
想い出で 居たい… ──
バンドのメンバーと池袋で呑んだ後、私は1人で三栄荘へ帰って来た。
コンサートに来ていた者達は皆、私の部屋で酒を呑んでいた。
ヒロシも既に打ち上げを済ませて、そこに居た。
久しぶりに、私の部屋は多勢の人間で賑わった。
終電の時間が近づき、ヒロ子とノブとドロを送って行くため、全員で外へ出た。
「ヒロシ、お前泊まって行くのかよ?」
ドロが云った。
「ああ。
今夜は鉄兵ちゃんと、一緒に寝るんだ。」
「危ねぇなぁ…。
しかし、今から電車に乗って帰るってのも、かったるいよな。