シロノノロイ
突如、拍子木を打ち鳴らすような音と、光源のない光が静寂の満ちる境内に響き渡った。驚いて顔を上げた真白は、ボンヤリとした人影を目にした。数人の小さな影がこちらを見て立っている。顔は見えなかったがなぜかそう感じた。まるで影そのものが立体感を持ったように表面には夜の闇にもくすまない黒がべったりと塗りたくられている。
その時、真白には呟くような声が聞こえた。正確には『聞こえた』ではなく『伝わってきた』だろうか。
「なに……これ」
通りゃんせ、通りゃんせ
頭に声が直接響いてくる。その恐怖と脳髄が丸ごと相手の手中に収まってしまったかのような不快感に、真白は堪らず両手で頭を覆う。
此処は何処の細道じゃ
そしてハッ、とした。
影達がゆっくりとこちらへ近づいてくる。未だ続く歌とそれに伴う不快感に顔をしかめながら、立ち上がって本殿の階段を駆け上がった。最上段まで上がって木製の引き戸に手をかけた。だが、たいして重くもなさそうな扉はいくら引いても開く気配がない。
「な、なんで開かないの!?」
天神様の細道じゃ
黒い影は滑るように真白へ近づき、もやの掛かった手を伸ばしてくる。
「いやっ!」
真白はその手を払い除けた。
「っ!」
バシンという破裂音がして先頭の影が揺らぐ。その拍子に真白は片手が掛かった引き戸が妙な重みを無くしたのを感じ、一気に引き開けた。引き戸を閉めると、真白はうずくまって身を固くした。
何分そうしていたことだろうか。
何者かの気配が徐々に遠ざかっていくのを感じる。どうやら影達は本殿の中までは入ってこられないらしかった。
真白は今まで留めておいた息を大きく吐き出し、手の甲の痛みに気付いた。先ほど影の手を払った右手が、火傷でもしたかのように痺れた。途端に得体の知れない影への恐怖が再び巻き起こった。
「怖い……怖いよ」
助けて、お父さん。
震えながら右手を胸に抱いた。
「どうしよう……」
ここにはさっきの影達は入ってこられないようだが、もしも入ってこられる”ナニカ”が存在するなら、真白はまさに袋のネズミになってしまうだろう。
その時、石段のそばの公衆電話の存在を思い出した。
「下まで走って助けを呼べば……」
引き戸の隙間から外を覗くと、やはりあの影達は居なくなっている。
今しかない。
戸を引き開けると真白は一気に駆け出した。
真白は石段の半ばまで来て違和感を感じた。うるさいかった祭りの喧噪が聞こえない。
あれほど賑わっていた通りは火を落としたように静かで、お囃子も聞こえてこない。屋台もその主人を失っていた。
明らかな異常事態に真白は焦りながらも公衆電話から父に電話をかけた。数回のコール音も、いつも以上に長々しく感じた。
「はい、杉村ですが、」
「もしもしお父さん!今どこ?!」
「ああ、真白か!すまない、急に仕事が入って遅れそうなんだ」
行きは良い良い、帰りは怖い
「!」
真白の喉がビクリと跳ねた。
この不快感はあの時の……。
恐る恐る振り返るとそこにはおびただしい数の影がひしめいて、真白の無防備な背中に近づきつつあった。
「い……や……」
「真白、どうしたん」
「嫌!お父さん、早く来て!」
真白は受話器を耳に押しつけもう片耳を塞ぎながら叫ぶように言った。
「真白!なにがあっ……」
「お父さん!?」
電話口からはくぐもったノイズが漏れ出していた。
黒い対流は真白を呑み込まんと近づいてくる。
「お父さん!おとうさ……」
真白はハッとして喉に手を当てた。
声が、出ない。
いくら叫ぼうとしても音すら出てこないのである。喉が捻れるような痛みだけがこれが現実であることを示していた。
(助けて、助けてお父さん!)
黒い軍勢が受話器をすがるように握った真白を呑み込んだ。
響く歌声と火傷の様な痛みが真白を蝕んでいった。
視界が暗転した。
真白は最初、自分が目を開けているのか分からなかった。
無論、真白自身瞼を開いている感覚はあったが、それだけだった。闇とも、 光とも言えない空間が眼前に広がっている。
(ここは、どこ……?)
真白は一歩踏み出す。
その時、横を何かがするりと通り抜けたように感じて、真白は身構えた。
(なにか……いる……!)
真白は自らの周囲にゆっくりとした風の動きを感じた。その渦巻きのような胎動は、徐々に距離を縮めているようだった。
(……!)
それが自分を包囲するような動きであることに気付き、真白は脱兎の如く駆け出した。
(逃げなきゃ……!でも、どこに……?)
周りはまるで目を瞑っているかのように未だ暗い。
何かの追ってくる気配がする。どうやら包囲網から抜けた真白に、執念深く狙いを付けているようだ。鉛のように重い空気が波のようになって、真白を襲った。堪えきれず、真白が半ば吹き飛ばされるようにしてうつ伏せに手をつくと、目の前には仄かに光を放つ真珠のような玉が落ちていた。
(なんだろう、これ……。あったかい……)
ほんの握り拳程度のそれから発せられる懐かしいような光に真白は自然と吸い込まれるように手を伸ばし、玉に触れた。
(なに!?何かに引っ張られる!)
突然何かに着物の襟首を強く引かれ真白は強引に引き起こされた。
(やめて!離してっ!)
まさか先ほどの影の仲間ではないかと、真白は身をよじって必死に振りほどく。予想以上の力の前に真白が諦めかけたとき、てにsいていた真珠色の玉がそれまでの鈍い光とは比べものにならないくらい輝いて、真白の視界は白一色に塗りつぶされた。
真白が恐る恐る目を開けると水の中を漂っているようだった。無数の光が尾を引いて、まるで泣いた後のようにピンぼけしている。視界はフラフラと彷徨い、上下左右の感覚が不確かだ。
不意にまた襟首を引っ張られた。
(わわっ!)
方向が変えられた視界には、今度は大きな楕円が見えた。はっきりしない瞳を、グシグシと擦るとようやくそれが水面に映る月だということがわかった。
ふと上を見上げるとさっきの光景がパノラマの星空であったことに気づく。しかしながら、着物は膝下からつま先にかけて濡れ、ついでに袖まで濡れている。
(私、どうして川に……?そう言えば、あの玉は)
思い返そうとしたところで肩を後ろから叩かれた。驚いて振り返るとそこには、暗闇に赤と青の光が並んでいた。更に驚いて一歩後ずさると、それが同い年くらいの少年であることがわかった。
身長は真白より一回り大きく、夜に溶けるような着物に、同じく無造作な黒い髪。闇に浮き出す異色の双眸は、獣のそれのように鋭く睨みを効かせている。
(あなたが私を助けてくれたの……?)
真白は自分自身に驚いて口を押さえた。そういえば、あの影達に襲われたときから今まで全く自分の声が聞こえてこない。そのことは対面した少年の怪訝な表情からも窺い知れる。
少年の口が開いた。
「……!……?」
(なに?何を言っているのか聞こえない……)
どうやら真白の声が出ていないのではなく、耳が聞こえなくなっているのかもしれない。 もしかしてその両方かもと考えて、真白は思わず自分の肩を抱いた。
「……」