シロノノロイ
その後、祐子について櫓を見に行ったり盆踊りで同学年の友達と出会ったり、その子らと一緒に射的や金魚すくいなどやって慌ただしくも賑やかに時は過ぎていった。
スーパーボールすくいに夢中だった祐子は、「そういえばさ……」と顔を上げると真白の方を見上げた。
「なに?祐子」
「いつもの時計。今日はしてないんだね?」
その言葉にハッとして左腕を見ると、見慣れた桜色の腕時計は影も形もなかった。
どこかで落としたっけ?いや、道中で外した覚えもないし落としたら流石に分かるだろう。祭りに来る前を振り返り、あっ、っと声を上げた。
「……家に置いてきた、かも」
祖母に浴衣を着つつけて貰う前に、邪魔だからと外してちゃぶ台の上へ腕時計を置いたことを思い出した。
「ちょっと取ってくる!」
次の屋台に向かおうとしていた一行から身を翻し、元来た道を走り出す。「私もいこうか~?」と祐子の気遣わしげな表情を見る。
「いいよ!一人で行ってくるから!」
今日は父と会うのだ。あれがなければ困る。きっと自分の贈った腕時計を付けた娘を見たら、父はまた嬉しそうな心底安心したような顔をしてくれるだろう。
手を振る祐子達の姿を背に、真白は暗い畦道を知らぬうちにスキップしていた。
「ただいま~……」
ゆっくりと家の引き戸を開く。既に家の蛍光灯は消えており、静かだった。まだ寝るには早い時間だったが祖母はもう寝ているのだろうか。
祖母も昔は体が弱く、母と同じ病を患っていたらしい。今では自分にも他人にも厳しく、しかし快活に笑う祖母であるが、母が亡くなったときは自分の遺伝なのではないかと酷く自身を責めていたそうだ。
玄関から廊下を歩き、居間へと上がる。大きな一枚板の机の上を探る。祖母が言うには、昔はこの大きな天板の上で親戚が集まって祝宴を催したりしていたようだったが、最近では疎遠になってしまった者達も居て、そんな集まりも出来なくなってしまったようだ。
「あ、あった」
指先に触れた硬いものを引き寄せて見ると、桜色のフレームと針が闇の中に浮かぶ。短針は七時の方向を指していた。いくら早寝と言ってもこの時間帯ならば、まだ祖母も真白も起きていて、夕飯を食べているぐらいの時間だ。
もしかして、と真白は思う。もしかして、祖母は寝たいにも関わらず私に合わせて起きてくれていたのかな……。祖母は厳しい人だ。それ故に、優しい。
真白は、ぐっ、と息を飲み、腕時計を腕に巻き付けると、出来るだけ物音を立てないようにゆっくりと引き戸を開いた。
今の真白には、それしか出来なかった。
真白はもう一度祭りの会場へと、歩き出した。三日月の月明かりが静かな光を真白に投げかけていた。しかし、それでも歩く道は暗く、いちいち足下を確認しないと躓いてしまいそうだった。そのようにして歩いて行く真白の目に、何かが横切った気がした。顔をあげた真白は目の前の異様な光景に、目をしばたかせる。
「あれ……?さく、ら?」
桜並木に薄桃色の花びらが、満開で咲いていた。さっき真白の顔を掠めたのは、サラサラと音が聞こえそうなほどに振り落ちる桜の花びらの中の、その一片だったようだ。
「ど、どうして?」
確かにこの近くには『オバケ桜』がある。しかし、真白の聞いた話ではこの並木の桜たちは何のいわくもないし、それであれば『夏の終わり』という季節は桜が咲くにはまったく見当違いであるはずだ。
真白はそのことを奇妙に思ったものの、なぜだか恐怖はなく、その光景に心引かれていた。咲き乱れる桜が、ざわりと夜風に揺れ、月光に青白く照らし出されていて、まるで桜の木に、青い炎が燈っているかのようだ。昼間の桜にはない、鋭く洗練された美しさを真白は感じ、誘われるように右手を前に伸ばした。
「バウ!」
「きゃ!」
突然、何者かが吼えた。真白は、咄嗟のことに腕を胸の前まで引っ込めると、声のした方向へと振り向いた。
犬だ。
少し距離が離れているにもかかわらず、真白の背丈ほどもあるのではないかと思えるほどに大きく見えた。風になびく体毛は、犬自身が創る影より黒い。しかし、最も目を引くのは、真白を鋭く見つめるその双眸だ。
右目は紅く、左目は蒼い。
瞳の外縁を色鉛筆で薄く塗り重ねたかように、淡く、しかし強烈な印象を放つ目が真白を睨み付けている。
いや、違う。
異色の瞳が向けられているのは、真白が手を伸ばした桜の木の方だ。真白も釣られてそちらの方を見ると、にわかに木の幹の中腹がボンヤリとかすんでいる。
「ッ!!」
瞬間、深海に叩き付けられるような感覚に、真白は思わず身を引いて目をしばたたかせる。それでも犬も『ボンヤリ』も、咲き誇る桜の花も消えてはくれなかった。
真白は祭り会場への道を駆け出していた。早く人の気配がするところへ行きたかった。言い知れぬ恐怖を感じていた。それは黒い犬や『ボンヤリ』に対してではなく、目の前で起きる異常事態をすんなり受け入れた自分へであり、受け入れさせた雰囲気であり。
それらと同時に、全てを投げ出し身を任せてしまいたくなるような、そんなネットリとした甘味のようなものが確かにあったからだった。
真白が祭り会場につくと、裕子たちといたときより更に賑やかになっていた。全力でここまで駆けてきた真白は、その喧騒にやっと息を吐いた。浴衣は着崩れ、真夏の夜ということもあり、真白の額からは汗が流れた。
荒い息をつきつつ、裕子たちを探す。しかし、人ごみのせいで遠目では色がうごめいているようにしか見えず、人の対流をかき分けて行く気力はなかった。ふと腕時計を見ると、そろそろ父との待ち合わせの時間だ。しぶしぶ裕子たちを探すのをあきらめて、待ち合わせ場所である神社の境内へ向かった。
人波に押し流されるままに進むと、境内へ向かう階段が見えてきた。普段はさほど気にならない段差が、疲労の所為か、今は高く遠いものに感じる。
「お父さんは、来てないみたい……」
ゆっくりと鳥居をくぐると、本殿の前は階段の下の喧騒など別次元の話であるかのように、寂しく感じるほどの静謐さに包まれていた。当然、人っ子一人、いない。
腕時計を見ると、待ち合わせ時間のちょうど五分前だった。
「早く来すぎちゃった、かな」
父のことだから五分前ぐらいには来ているだろうと思っていたのだが、当てが外れてしまったようだ。いや、それともまた仕事で遅くなるのだろうか。
真白は賽銭箱の隣に腰かけ、顔を伏せる。
仕事ならば、最悪ここにさえ来られないこともあるだろう。けれどもその仕事だって、他ならぬ自分のためにも父は働いてくれているのだろうと真白は考えていた。だからこそ、そんな父の迷惑にはなりたくなかったし、自分の出来うる限り父を喜ばせたいとも思っている。
それと同時に、母を失った時と同じような寂しさを真白は感じずにはいられなかった。
もっと一緒にいたい。そう胸の中で思った瞬間だった。
「え!?」