雪になりゆく
春は瞬く間に過ぎ、夏が到来した。学校は夏休みに入り、妹のピアノ練習も数週間の休みに入った。彼女に会うことはできない。私は街の図書館と公共施設を転転と渡り歩き、勉強に集中できる場所を探していた。そうした彷徨からの帰り道だったろう。大通りへ続く道で、彼女と出会った。
思えば、屋外で彼女と顔を合わせたのは、その時が初めてだった。彼女は夏らしく涼しげな白いブラウスに紺色のロングスカートを身につけ、つば広の帽子をかぶっていた。時刻は既に夕暮れで、日差しは弱いにも関わらず、帽子を目深に被りなおしながら私に笑いかけた。
「こんばんは。あの子は一緒じゃないの?」
彼女はよく通る澄んだ声で、そう尋ねた。私は首を横に振った。いつもどおりに過ぎて終るはずだった日常が、彼女の出現で一転してしまった。目が眩むような心持がした。その道でどんな会話を交わしたのだったかは覚えていないが、重い勉強道具を背負って歩いていた私を気の毒に思ったのだろう。彼女は私を、家に誘った。私は頭が真っ白になり、ただ黙って彼女の後をついて行くしかなかった。
家に着くと、彼女はいつものピアノの部屋ではなく、居間に通してくれた。テーブルを挟むように椅子が二脚置いてあり、壁際には小さな本棚があった。入って正面の壁は一面、ピアノの部屋同様に窓になっており、そこから夕陽が差し込んでいた。私は椅子に座り、彼女が出してくれたアイスティーを飲みながら、固くなっていた。二人きりである。何を話し出せば良いのかも分からなかった。
暫く、私の勉強について彼女が質問し、それに答えるというやりとりが続いたが、やがて話題は尽き、部屋に沈黙が降りた。その時、私は何を思ったか、妹の冗談を彼女に口走ってしまったのである。
先生は、雪女のように肌が白いですよね。
言ってしまってから、私は何と言うことを口にしてしまったのかと赤面した。早くこの場から立ち去りたいと思いながら彼女の顔を窺うと、彼女は眉根を寄せ、淋しそうな表情で、どこか遠くを見つめていた。不快にさせてしまった。私はいたたまれず、テーブルに目を落とした。
「もう、随分昔のことになるんだけど」
彼女が突然そう切り出したので、私は伏せていた顔を上げた。彼女は未だどこか遠くを見るような目をしていたが、そのまま続けた。
「私がまだ、五歳くらいの小さな子供だった頃の話。冬にね、友達と雪遊びをしていたの。吹雪だったから早々に解散して、私も一人で帰り道を歩いていたんだけど。その日は本当に雪がひどくてね。歩道と車道の間に、降り積もった雪を集めて雪山を作るでしょう。その雪山と、歩道の境目の部分にできた穴に、嵌ってしまったの。吹雪で足元がよく見えなくて、足を滑らせてしまったのね。小さい子供が嵌まり込んだら、容易には抜け出せないような穴だった。私は仰向けに雪に埋もれて、泣くこともできず、声も出せなかった。寒さで顔が痺れてしまったのよ。そうしているうちに気が遠くなってしまって、気づいた時には歩道に寝かされていたの。体の中が冷え切っていたのを覚えてる。特に、胸の中が……今思うと、あれは肺だったのね、肺が凍ってしまいそうなほどに、冷たい空気で満たされていたわ。目を開けると、女の人が私を見下ろしていた。雪女だ、って直感した。その雪女が私を助けてくれたんだ、って。彼女は優しく微笑んで、私を抱き起こしてそのまま……どこかに消えてしまった。そんなことがあってからかしら。私の体は、その時の彼女の様に白くなってしまったみたいなの。それも、一冬ごとに、白さが増していくような……」
そこで彼女はようやくハッとして、現実に引き戻されたように私を見た。それから慌てたように首を振り、笑顔になった。
「ごめんなさいね、今のは私が考えたお話なの。信じないでね」
そう言う彼女にうなずいて見せはしたが、私は内心、大きな衝撃を受けていた。私は、彼女の真実を知ってしまったのだ。
その日はそのまま、彼女の家を辞した。彼女の話は、誰にもしなかった。する気になどなれなかった。その夏休みの間に、妹はそのままピアノをやめてしまった。休みが明けて、彼女の家の前を通ると、表札がなくなっていた。彼女は突然、引っ越してしまったのだという。暫くの間、彼女の話は気にかかっていたが、それもやがて記憶の底に沈んでしまった。あれから、もう十年が経つ。